タピスリー

ル・コルビュジエにとってタピスリーは単なるテキスタイル作品ではなく、建築を構成する大切な要素の一つとなっています。

最初にタピスリーを手掛けたのは、1937年、マリ・クットーリ夫人からの依頼を受けてのことでした。彼女は衰退していたフランスのタピスリーを復興すべく尽力し、交友のあった画家たちに下絵の制作あるいは絵画の使用許可を求め、その絵をもとにした芸術的なタピスリーの創作を行っていました。ル・コルビュジエは彼女の依頼に応え、『マリ・クットーリのために』と題した、くつろぐ女性をテーマにした作品を制作しました。

その後、彼はいったんタピスリーから離れますが、戦後、オービュッソンのタピスリー学校の校長に就任したピエール・ボードゥアンと出会うことによって、ル・コルビュジエは本格的にタピスリー制作に乗り出します。

織物であるタピスリーには防音、防寒の効果があり、とくにコンクリート打ち放しの空間には効果的で、ル・コルビュジエはチャンディガールの《高等裁判所》の壁面を覆うために16点のタピスリーを制作しています。

しかし、こうした物理的な効果からだけでなく、ル・コルビュジエはタピスリーを「放浪者の壁(放浪する壁)」と名付け、転居の多い現代人のための即席の壁となることを意図して、制作しました。つまり、丸めて持ち運んだタピスリーを、転居後の部屋に1枚掛ければ、そこにはたちまち、いつものル・コルビュジエの空間ができあがるというわけです。なので、彼が作るタピスリーは大型で、しかも人体寸法を基準にした「モデュロール」のサイズで作られることが多かったのです。そして、タピスリーは壁として床から立ち上がるように設置することにこだわり、ル・コルビュジエはこのことをタピスリーの所有者に念押ししていました。