ル・コルビュジエの生涯
Le Corbusier (Charles-Edouard Jeanneret) 1887~1965
年月 | 年齢 | 事項 |
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1887 | 0歳 | 10月6日、ラ・ショー=ド=フォンのラ・セール通り38番地にて、ル・コルビュジエ(=シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ)誕生 父ジョルジュ・エドゥアール・ジャンヌレは時計のエナメル盤職人、母マリー・シャルロット・アメリー・ジャンヌレ・ペレは音楽教師 |
1891 | 4歳 | ラ・ショー=ド=フォンの小学校に入学 |
1900 | 13歳 | 地元の美術学校に入学 時計装飾を学ぶ |
1904 | 17歳 | シャルル・レプラトニエ先生による美術学校高等科に進学、先生により建築への興味がひらかれる |
1905 | 18歳 | 建築家ルネ・シャパラの協力を得て、美術学校の運営委員であるルイ・ファレ氏のための家をデザインする -処女作《ファレ邸(~07)》 |
1906 | 19歳 | 懐中時計(外側)のデザインと彫刻を行い、ミラノの博覧会で賞をもらう |
1907 | 20歳 | 9月、初の外国旅行はイタリアへ 2か月半かけてミラノ、フィレンツェ、ガルッツォのエマの修道院、シエナ、ボローニャ、パドゥバ、ヴェニスなどをまわる 11月、ブダペスト経由でウィーンへ ウィーンには4か月滞在 ウィーンで《ストッツァー邸》《ジャクメ邸》の計画を練る |
1908 | 21歳 | ウィーンでは、ヨゼフ・ホフマン、コロマン・モーザー、グスタフ・クリムトに会う 3月、ニュルンベルグ、ミュンヘン、ストラスブール、ナンシーを通ってパリへ リヨンではトニー・ガルニエに会う パリではフランツ・ジュールダン、シャルル・プルメ、アンリ・ソヴァージュ、ウジェーヌ・グラッセを訪問する ペレ兄弟のアトリエで製図工として働く |
1909 | 22歳 | 秋にラ・ショー・ド・フォンに帰る 《ストッツァー邸》《ジャクメ邸》が完成 |
1910 | 23歳 | 「連合アトリエ」を設立 グリンデルヴァルドでのナショナル・スキー大会に参加 4月、故郷の美術学校からの任務でドイツの装飾芸術の調査に行く 「ドイツの装飾芸術運動について」をまとめて1912年に発表 冬にはベルリンのペーター・ベーレンスのアトリエで働き、ヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエに出会う |
1912 | 25歳 | ラ・ショー=ド=フォンで両親のための《ジャンヌレ・ペレ邸(モンターニュ通り)》 ル・ロクル近郊で《ファヴル・ジャコ邸》を手掛ける |
1913 | 26歳 | パリのサロン・ドートンヌで10点の水彩画からなる初の展覧会「石の言葉」を開催 デッサンの教師のための資格を取得 |
1914 | 27歳 | ラ・ショー=ド=フォンの美術学校の新設科を閉める ケルンへの旅行(工作連盟(Werkbund)の展覧会) 「ドミノ」住宅の研究を開始 |
1915 | 28歳 | パリの国立図書館の版画部門で勉強 「街の建設」の論文作成 |
1916 | 29歳 | ラ・ショー=ド=フォンで《シュウォブ邸(トルコ風ヴィラ)》と《シネマ・スカラ》の建設 |
1917 | 30歳 | ラ・ショー=ド=フォンから決定的に離れ、パリに定住する 最初の建築アトリエをBelzunce通り20番地(10区)に、つづいてアストル通り29番地(8区)に構える 1933年までジャコブ通り20番地(6区)に居住 鉄筋コンクリート会社SABA(la Societe d'Applicaion du beton arme SABA)の顧問に(1917年4月~1919年1月) |
1918 | 31歳 | オーギュスト・ペレの仲介で画家のアメデ・オザンファンや芸術家たち(ジョルジュ・ブラック、ホアン・グリス、ピカソ、ジャック・リプシッツなど)と知り合う パリで最初の油彩作品「暖炉」を制作 オザンファンとともにパリのトマ画廊で「ピュリスト展」を開催 『キュビスム以降』(オザンファンと共著) 網膜はく離で左目の視力を失う |
1919 | 32歳 | オザンファン、ポール・デルメとともに「レスプリ・ヌーヴォー」を設立 《モノル住宅案》 |
1920 | 33歳 | フェルナン・レジェと知り合う 総合芸術雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」を発行(~25)し、建築について執筆する際のペンネームとして「ル・コルビュジエ」を使用 これはアルビジョワに先祖をもつ母方の祖父の「Lecorbesier」から採られたもの 《シトロアン住宅案》 |
1921 | 34歳 | カーンワイラー(Kahnweiler and Uhde)のオークションで、オザンファンとともにラウル・ラ・ロッシュのためにキュビスムの絵画作品を購入(1921~23) ドゥルエ画廊(Galerie Druet)でジャンヌレの油彩展 オザンファンとともにローマ旅行 |
1922 | 35歳 | 再従弟のピエール・ジャンヌレと協働開始 ソルボンヌで講演 モデルのイヴォンヌ・ガリと知り合う 彼女とは1930年に結婚する サロン・ドートンヌで「300万人の現代都市計画」を提示 《ベスニュ邸(ヴォークルソン)》と《オザンファンのアトリエ住宅(パリ)》(~24) 《シトロアン住宅案》《イムーブル・ヴィラ案》などに取り組む |
1923 | 36歳 | 『建築をめざして』出版(1927年には英語版も出版) レオンス・ロザンベールの「レフォール・モデルヌ」画廊でジャンヌレ&オザンファンの展覧会を開催 《ラ・ロッシュ+ジャンヌレ邸(オートゥイユ》(~24)、両親のための《レマン湖の小さな家(コルソー、スイス)》の建設 |
1924 | 37歳 | 事務所をセーヴル街35番地(パリ6区)に構える ジュネーヴ、ローザンヌ、プラハで会議 クリシュナムルティと知り合う 『ユルバニスム』の出版 《労働者の住宅(レージュ、ジロンド県)》、《リプシッツ&ミスチャニノフ邸(ブローニュ・シュル・セーヌ)》を建設 |
1925 | 38歳 | 『今日の装飾芸術』『近代建築名鑑』『近代絵画(オザンファンと共著)』を出版 《エスプリ・ヌーヴォー館(アールデコ博)》、《シテ・フリュジェ(ペサック)》の建設 「ヴォワザン計画」、《メイヤー邸》の計画 ガートルード・スタインによってアナトール・ド・モンジー大臣と知り合う |
1926 | 39歳 | 父ジョルジュ・エドゥアール・ジャンヌレ逝去(4月11日) 『機械時代の建築』出版 《クック邸(ブローニュ・シュル・セーヌ)、《ギエット邸(アントワープ)》、《テルニジアン邸(ブローニュ・シュル・セーヌ)》、《人民の家(救世軍、パリ)》の建設 「新しい建築のための5つの要点」発表 |
1927 | 40歳 | マドリッド、バルセロナ(アントニ・ガウディの建築を訪問)、ブリュッセル、フランクフルトで会議 ジュネーヴの《国際連盟》のためのコンペで1位になるも、外される 《スタイン+ド・モンジー邸(ガルシュ)》、《プラネクス邸(パリ)》、《ワイセンホーフ・ジードルングの住宅(シュトゥットガルト)》を建設 |
1928 | 41歳 | ラ・サラにおいて「CIAM(近代建築国際会議)」を設立 『住宅ー宮殿』を刊行(《国際連盟》コンペの顛末をまとめたもの) プラハ、モスクワで会議 アルカション湾のピケでバカンスを過ごす 《ベゾー邸(カルタゴ)》、《チャーチ邸(ヴィル・ダヴレイ)》、《ネスレ・パビリオン(パリ)》、《セントロソユース(モスクワ)》を手掛ける |
1929 | 42歳 | 南アメリカへの旅 ブエノスアイレス、モンテヴィデオ、リオデジャネイロ、サンパウロで10回におよぶ一連の会議に出席 ボルドーからリオに向かう船上にてジョセフィン・ベーカーに出会う サロン・ドートンヌにて、シャルロット・ペリアンとピエール・ジャンヌレとの協働で家具を制作して展示 フランクフルトにてCIAM第2回大会を開催 《サヴォア邸(ポワシー)》の建設 《ムンダネウム》の計画 南アメリカのいくつかの都市のための計画 |
1931 | 44歳 | ピエールとともにスペイン横断旅行、モロッコとアルジェリアにも ムザブ(ガルダイア)を訪問 《ナンジェセール・エ・コリ24番地(ブローニュ・シュル・セーヌ)のアパート》を建設し、ここに自分のためのペントハウスとアトリエを設ける 《ソビエトパレス案》(~33) ザルブラ社の壁紙デザイン |
1932 | 45歳 | 1937年の「パリ万博(芸術と技術の国際博覧会)」のための計画コンペに参加 ストックホルム、オスロ、ゲーテボルグ、アントワープとアルジェで講演 バルセロナでCIRPAC(Comité international pour la résolution des problèmes de l’architecture contemporaine) に参加 |
1933 | 46歳 | チューリッヒ大学から名誉博士号を受ける パトリス号とアテネでのCIAM第4回大会に参加 「アテネ憲章」起草 雑誌『プレリュード』のメンバーになる アルジェで負傷する |
1934 | 48歳 | 《ナンジェセール・エ・コリ24番地のアパート》の7階に住まいとスタジオを構えて引っ越し ここが彼の終生の住まいとなる ローマ、ミラノ、アルジェ、バルセロナで講演 頻繁にアルジェを訪問 ジアコモ・マッテ・トルッコによるトゥーリンの《リンゴット・フィアット工場》を訪問 ノルベール・ベザールとともに「輝ける農場」をデザイン |
1936 | 49歳 | 2回目のブラジル旅行はグラフ・ツェッペリン号に乗って リオの《国立教育保険省ビル》に対して、ルチオ・コスタ、オスカー・ニーマイヤー、アルフォンソ・レイディらに助言 リオ・デ・ジャネイロで講演 《10万人のスタジアム(パリ)》計画 ヴェズレイのジャン・バドヴィッチの家に壁画を描く マリ・クットーリのための最初のタピスリーを制作 |
1937 | 50歳 | フランス政府から「レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章」を受章する RIBAの会員になる パリ万博で《新時代館》を建て、そこでCIAM第5回大会を開催 ブリュッセルとリヨンで講演 『伽藍が白かったとき』を出版 「パリ計画」と「カルテジアン・スカイスクレイバー(デカルト式超高層)」の研究 |
1938 | 51歳 | チューリッヒ美術館とルイ・カレのギャラリー(パリ)で絵画展開催 海水浴中に重大な事故(ボートのスクリューが接触)に遭い、サントロぺの病院で手術を受ける 療養のため、ロクブリュンヌ・カップ・マルタンのアイリーン・グレイの家《E.1027》に滞在し、そこに8点の壁画を描く 『大砲、砲弾?もう結構!住宅をお願いします』、『不衛生街区No.6』を出版 |
1939 | 52歳 | C.E.P.U.(Committee for preparatory urban studies、都市研究準備委員会)の立ち上げでジャン・ジロドゥと知り合う ストックホルムの王立芸術アカデミーで外国人ディプロマを受ける 雑誌『ル・ポワン』誌上で「新時代の抒情と都市計画」を発表 |
1940 | 53歳 | 6月11日にセーヴル街35番地のオフィスを閉め、イヴォンヌとピエールとともにピレネーのオゾンへ疎開する 《ミュロンダン住宅(案)》 |
1941 | 54歳 | ピエールはレジスタンスに参加するために離れ、ル・コルビュジエはイヴォンヌを疎開先に置いたまま、ヴィシーに滞在しペタン元帥に接触を図る(このことで、戦後非難される) 『パリの運命』、『4つの交通路について』を出版 |
1942 | 55歳 | ASCORAL(Constructors' meeting for architecturl renuwal)設立 アルジェへの公式な出張 セーヴル街35番地の事務所を再開 『ミュロンダン構法』、『人間の家(フランソワ・ド・ピエールフウと共著)』を出版 |
1943 | 56歳 | ジョセフ・サヴィナとの協働を開始 『アテネ憲章』、『建築科学校の学生たちとの対話』を出版 「モデュロール」研究に着手 |
1944 | 57歳 | ユニテ・ダビタシオンの研究 |
1945 | 58歳 | 建設者のアトリエ(ATBAT=Builders' Studio)設立 ウジェーヌ・クロディウス・プティと知り合う リバティ船(=戦時標準船、規格型輸送船)「Vermon S. Hood」号の船上で「モデュロール」のプロポーションのシステムについて研究 『三つの人間機構』出版 エドゥアール・トルーアンと《サント・ボームの教会計画》(~48) |
1946 | 59歳 | アメリカのプリンストンへ旅行 アルベール・アインシュタインと会う 『都市計画を考える方法』、『都市計画』を出版 《デュヴァルの織物工場(サン・ディエ)》(~51) |
1947 | 60歳 | ニューヨークの国連本部ビルのための委員会のコンサルタントの一員になる ブリッジウォーター(イギリス)でCIAM第6回大会 『国連本部』出版 《マルセイユのユニテ・ダビタシオン》の建設開始 |
1948 | 61歳 | アメリカでいくつかの展覧会を開催・・・ポール・ロザンベール画廊(ニューヨーク)、ICA(ボストン、デトロイト、サンフランシスコ)、コロラドスプリングス、クリーヴランドなど タピスリーのデザインに関してピエール・ボードゥアンとの協働を開始 大学都市の《スイス学生会館》に壁画を制作 事務所員たちの要望があり、セーヴル街35番地のスタジオにも壁画を描く |
1949 | 62歳 | ボゴタの都市計画研究のためにコロンビア当局と契約を交わす ベルガモでCIAM第7回大会開催 《クルチェット邸(ラ・プラタ)》(~51)を建設 《マルセイユのユニテ・ダビタシオン》の現場をジャン・ピエール・オモン(俳優)と訪問、パブロ・ピカソとも訪れる |
1950 | 63歳 | 《ロンシャンの礼拝堂》の検討を開始する 新州都チャンディガールの計画のために、ピエール・ジャンヌレ、マクスウェル・フライ、ジェーン・ドリューとともに、パンジャブ州政府(インド)のコンサルタントになる 『モデュロール』、『アルジェの詩』、『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』を出版 ル・コルビュジエ自身の休暇のため滞在先として、ロクブリュンヌ・カップ・マルタンに《休暇小屋》をつくる コラージュ制作に熱中 |
1952 | 65歳 | 「レジオン・ドヌール勲章コマンドゥール章」を受章する 3月、三度目のインドへの旅 10月14日、《マルセイユのユニテ・ダビタシオン》の竣工式 《ジャウル邸(ヌイイー・シュル・セーヌ)》、《ユニテ・ダビタシオン(ルゼ・レ・ナント)》の建設 |
1953 | 66歳 | 《ユネスコ本部(パリ)》のプロジェクトのための5人委員会のメンバーに選出される(ほかはグロピウス、ブロイアー、マルケリウス、ロジャース) Luynesのエナメル作家、ジャン・マルタンを訪問する CIAM第9回大会がエクサン・プロヴァンスで開催され、この会議をもって脱退する パリ近代美術館で美術作品の展覧会を開催 《サント・マリー・ド・ラ・トゥーレットのドミニコ会修道院(エヴー)》、《ブラジル学生会館(パリ、ルチオ・コスタと協働》の建設 |
1956 | 69歳 | エコール・デ・ボザールの教職のポストを断る 『パリ計画』を出版 リヨンで展覧会を開催 |
1957 | 70歳 | 10月5日、妻イヴォンヌ死去 W.ボジガーのキュレイションによる大型回顧展『10都市』展を開催:チューリッヒ、ベルリン、ミュンヘン、フランクフルト、ウィーン、ハーグ、パリなど ラ・ショー=ド=フォンの美術館で展覧会開催 ラ・ショー=ド=フォンの名誉市民になる コペンハーゲンの王立美術アカデミーの会員になる 「芸術と文学のコマンドゥール章」を授与される 『建物の詩』、『ロンシャン』を出版 《ユニテ・ダビタシオン(ベルリン)》、《ユニテ・ダビタシオン(ブリエ・アン・フォレ)》 |
1958 | 71歳 | アメリカへの旅 9月12日、スウェーデンで「言語と教育(Litteris et Artibus)」のディプロマを得る ブリュッセル万博で《フィリップス館》を手掛ける 内部で上映した『電子の詩』も制作(音楽はエドガー・ヴァレーズが作曲) 《合同庁舎(チャンディガール)》完成 |
1959 | 72歳 | ケンブリッジ大学から名誉博士号 《サヴォア邸》を、保護されるべき遺産に登録するための国際的なキャンペーンを展開 インドへの旅 《文化の家(フィルミニ)》の建設 ウジェーヌ・クロディウス・プティからフィルミニ・ヴェールの《ユニテ・ダビタシオン》を委嘱される ザルブラ社のための「壁紙」を出版 《国立西洋美術館(東京)》開館する |
1960 | 73歳 | 2月15日、コルソーで母マリー・シャルロット・アメリー・ジャンヌレ・ペレ死去 2月4日、ソルボンヌで講演 10月19日、《サント・マリー・ド・ラ・トゥーレットのドミニコ会修道院》の竣工 『忍耐強い探求のアトリエ』出版 《ケム・ニファーのリーヌ川(Rhine River)の排水施設》 |
1962 | 75歳 | 《在ブラジル仏大使館(ブラジリア)》プロジェクトのためにブラジルへ パリ近代美術館で大回顧展 《州議会議事堂(チャンディガール)》の完成 《ユニテ・ダビタシオン(フィルミニ)》の建設 |
1963 | 76歳 | フィレンツェ市からゴールドメダル 「レジオン・ドヌール勲章グラン・トフィシエ章」を受章 ジュネーヴ大学から名誉博士号 《カーペンター視覚芸術センター》の完成 ストロッツィ宮(フィレンツェ)で展覧会開催 ハイジ・ウェーバーのための《人間の家(=ル・コルビュジエ・センター、チューリッヒ)》(~67)をデザイン |
1964 | 77歳 | 6月、セーヴル街35番地のスタジオで、「レジオン・ドヌール勲章のグラン・クロワ(大十字勲章)」をアンドレ・マルロー大臣から受章 《ヴェニスの病院》計画のデザイン チューリッヒとラ・ショー=ド=フォンで展覧会開催 |
1965 | チャンディガールの《開いた手》のモニュメントのスタディを再開 ボストンの建築協会から受賞 『ロンシャンのためのテキストとデッサン』を出版 《フィルミニのスタジアム》の建設 8月27日、カップ・マルタンで海水浴中に没 9月1日、ルーヴルのクール・カレにて公式の葬儀が行われ、カップ・マルタンの墓地に埋葬 | |
2006 | フィルミニのサン・ピエール教会竣工 | |
2007 | 生誕120周年で世界各地で展覧会が開催される 国立西洋美術館が国の重要文化財指定を受ける | |
2016 | ル・コルビュジエの建築7ヶ国17資産が、ユネスコの世界文化遺産に登録される |
参照:ル・コルビュジエ財団(Fondation Le Corbusier)ホームページ