ル・コルビュジエと日本

ル・コルビュジエは非常に日本人に馴染みの深い建築家です。彼の作品は常に日本人の心を惹きつけ、日本人はいつも彼のことが気に掛かって仕方がなかったと言ってよいでしょう。「世界文化遺産」に登録されたことで、彼の業績が改めて注目を集めていますが、それは昭和初期から繰り返されてきたことでした。

ル・コルビュジエが初めて日本で紹介されたのは、1923(大正12)年8月号の『建築世界』に掲載された薬師寺主計(1921年から23年まで陸軍省技師としてヨーロッパ出張中)による「欧米を巡りて(仏蘭西の青年建築家コーブ‐セースーニエ氏に会ふの記)」の記事です。1922年秋にパリのサロン・ドートンヌを訪れ、ル・コルビュジエのプレゼンテーションに感激した薬師寺は、アトリエでル・コルビュジエと対面しています。彼が記した若き建築家のイメージは、当時の建築家たちの心に強い印象を残しました。

同様に1922年のサロン・ドートンヌを訪れた建築家の中村順平は、ル・コルビュジエのプレゼンテーションに対して、「げに近来の壮挙であった(略)東洋の孤国の一日本人の揮身の血をたぎらせるには十分なる力と熱とがあった。」(中村順平「仏蘭西現代都市研究に就て」(『建築新潮』1924年)とし、非常に大きな衝撃を受けたことを素直に認めています。

ル・コルビュジエはこの二人によって日本の建築界にその名が伝えられましたが、輸入された欧米の雑誌や書籍などを通して、早い時期からル・コルビュジエの名前を知り、関心を示していた建築家もいましたし、さらに、藤島亥治郎、山田守、村野藤吾、蔵田周忠、山脇巌、吉田鉄郎らのように実際に建築作品を見に行った者も少なくありませんでした。

1929年には『国際建築』が5月号と6月号の2号連続で「ル・コルビュジエ特集」を組んでいます。5月号が日本人建築家等による論考、6月号がル・コルビュジエのテキストや資料の翻訳となっており、彼が手がけた建築を紹介する多くの写真が掲載され、ル・コルビュジエに会った者や建築を見た者たちによる実体験が語られました。ここで建築家たちは彼の唱える建築論の素晴らしさを称え、彼の行動力を称えています。この年において、ル・コルビュジエ・ブームは最高潮を迎えました。

ル・コルビュジエは機械のもつ合理的で機能的な美しさ、その艶やかで無駄のない、幾何学的で単純なフォルムを讃えています。当時の人々にとってル・コルビュジエの「住宅は住むための機械である」というプロパガンダは、現在の我々よりも素直に受け止められたのではないでしょうか。

さらにル・コルビュジエが日本人に受け入れられやすかった理由は、彼の建築と日本建築との間に共通点が多いと判断されたからです。柱と梁からなる建築を提唱したル・コルビュジエ建築に対して、当時の建築家たちはこのような印象を語っています。「欧州の建築界の尖端に立っている彼が、最も新しい理論として唱導していることを、日本では三百年も前からやっているのだ。」(牧野正巳「ル・コルビジエを語り日本に及ぶ」『国際建築』1929年5月号)

こうした見方は、最先端を行くル・コルビュジエが苦労して取り組んでいることは、実は日本では昔から実現されている、それだけ日本建築は素晴らしいのだ、という主張へ展開されていくこととなって、日本建築の優位性を謳うーひいては日本そのものの優位性をうたうためにル・コルビュジエは利用された面があったと言っても良いでしょう。

戦前には、牧野正巳や土橋長俊がアトリエに勤務した他、前川國男、坂倉準三が長くアトリエで学び、その成果を日本に持ち帰りました。さらに、戦後には吉阪隆正がアトリエで働いています。彼らの滞在時期が少しずつ異なるため、その時々の、変貌を続けるル・コルビュジエの姿が、それぞれから伝えられることとなりました。

《国立西洋美術館》は、日本政府から設計を依頼されたル・コルビュジエが「無限成長美術館」のコンセプトを活かして基本デザインをつくり、その案を元に、前川、坂倉、吉阪という彼の弟子たちが協力して作り上げた美術館でした。

その後も、ル・コルビュジエの弟子たちの指導を受けた教え子たちや、海外からの情報に触れてル・コルビュジエに魅了された多くの建築家たちが、日本の建築界をリードしていきました。今でもル・コルビュジエに心魅かれる人が多い理由には、連綿とつながる弟子たちの系譜があることは言うまでもないでしょう。

神奈川県立近代美術館を坂倉準三に案内されるル・コルビュジエ 提供 坂倉建築研究所