世界文化遺産
2016年7月17日に、「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」はユネスコの「世界文化遺産」に登録されました。
その評価基準は下記のとおりです。(文化庁の公式ホームページより転載)
ⅰ.ル・コルビュジエの建築作品は、人類の創造的才能を現す傑作であり、建築及び社会における20世紀の根源的な諸課題に対して顕著な回答を与えるものである。
ⅱ.ル・コルビュジエの建築作品は、近代建築運動の誕生と発展に関して、全世界規模で半世紀にわたって起こった、前例のない人類の価値の交流を示している。ル・コルビュジエの建築作品は、他に例を見ない先駆的なやり方で、過去と決別した新しい建築的言語を開発してみせることによって、建築に革命を引き起こした。
ル・コルビュジエの建築作品は、ピュリスム、ブルータリスム、彫刻的建築という近代建築の3つの大きな潮流の誕生のしるしである。
ル・コルビュジエの建築作品が4大陸で与えた地球規模の影響は、建築史上新しい現象であり、前例のない影響を示すものである。
ⅲ.ル・コルビュジエの建築作品は、その理論と作品に置いて20世紀における顕著な普遍的萎靡をもつ近代建築運動の思想と、直接的かつ物理的に関連している。一連の資産は、建築、絵画そして彫刻が統合した「エスプリ・ヌーヴォー」を表している。
ル・コルビュジエの建築作品は、1928年以降CIAM(近代建築国際会議)により強力に広められた、ル・コルビュジエの思想を具現化している。
ル・コルビュジエの建築作品は、新しい建築言語の発明、建築技術の近代化、近代人の社会的・人間的ニーズへの対応のために、近代建築運動が20世紀の主要課題に対応しようとした解決策の顕著な現れである。
20世紀の主要課題に対するル・コルビュジエの建築作品の貢献は、単に、ある時点での模範的な偉業にとどまらず、半世紀を通じて全世界に着実に広められていった建築及び文字による提案の顕著な総体である。
登録されたのは7ヶ国に及ぶ17資産で、戸建て住宅、集合住宅、工場、宗教建築など用途も多岐にわたっており、一人の建築家が「全世界規模で半世紀にわたって」つくった作品の数々が登録されたというのは、初めてのケースです。
今回登録されたのは、下記の17資産です。
ル・コルビュジエの建築作品
レマン湖畔の小さな家
スイス
両親のための60㎡ほどの小さな家で、家のプランを練り上げてから、それが収まるような美しい眺望の敷地を探し、その結果、レマン湖畔の北東部の風光明媚な小村コルソーの細長い敷地に建てられた。11mにおよぶ横長の連続窓からは、まさに船窓から見るかのような景色が望め、庭の一隅はピクチャーウィンドウによって切り取られた景色が楽しめる。
寝室、居間などのスペースが緩やかにつながり、小さいながらも機能的な住宅である。湖側のテーブルは可動式で、生活に合わせて窓下のレールに沿って、スライドさせることができる。
また、客間は、狭いながらも収納式のベッドや洗面台などを設置することで空間をうまく利用している。
陸屋根はほんの少し傾斜がつけられ、水はけを良くしてあり、屋上は緑に覆われ、屋上緑化のはしりである。
屋上に上る外階段の上部には、愛犬が外を見渡せるような台が設けられているのも面白い。
地下室の浮力のせいで壁にひびが入ったため、湖側ファサードは後にアルミの薄板で覆われた。
ル・コルビュジエの父ジョルジュは1926年に亡くなったが、母マリーは1960年に100歳で亡くなるまで長くこの家に住み続けた。
ラ・ロッシュ+ジャンヌレ邸
フランス
独身のラウル・ラ・ロッシュ氏の家と、ル・コルビュジエの兄であるアルベール・ジャンヌレ夫妻の家の2棟続きの住宅である。
この住宅では様々な建築的試みがなされている。まずここで、初めてピロティが実現された。ギャラリー棟が持上げられ、それによって、浮遊するボリュームが生まれた。
《ラ・ロッシュ邸》は、吹き抜けの大きな玄関ホールを中心に階段、ブリッジ、見下ろし台などが配され、ラ・ロッシュ氏のコレクションを展示してみせるためのギャラリー部分では、湾曲した壁沿いにスロープを設けることで、散策へといざない、空間に時間性を導入することで、「建築的プロムナード」を演出している。
さらに、ラ・ロッシュ+ジャンヌレ邸の平面には、幾何学的に整理された構図の中で、いくつもの線が重なり合いながら、線が連綿とつながっていく彼の絵画作品の表現と相通じるものが読み取れる。
そして、白を基調に、陰部分には暗めの色、明るい壁には赤、というように、色彩による建築的カモフラージュが試みられている。
この住宅は、ル・コルビュジエによる「住宅構成の4つの型」の第一番目に挙げられ、「各構成部分が、その有機的構成理由に従って、他の部分に隣接する」、「内部が自ずから広がり、その結果として外部が決定される」という手法で構成されている。
もともとは別の3者のための計画であったが頓挫し、施主が替わったという経緯がある。ちなみに、同敷地の右隣には「ヴォワザン自動車・飛行機工場」の支配人であるモンジェルモン氏のための住宅を計画したが実現しなかった。
現在はル・コルビュジエ財団本部の建物となっており、《ジャンヌレ邸》は事務局、資料室となり、《ラ・ロッシュ邸》は一般公開されている。
シテ・フリュジェス(ペサックの集合住宅)
フランス
ル・コルビュジエに心酔した事業家アンリ・フリュジェス氏が、自分の工場労働者たちのための住宅を大量に建設しようと計画し、その実施をル・コルビュジエに頼んだ宅地開発事業である。当初200戸あまりを予定していたが、実際に完成したのは約50戸あまり。それでも、色とりどりの住宅が立ち並ぶ街路の景観は圧巻である。3階建ての摩天楼型から、アーチ状の屋根のテラスで連結されるアーケード型や、凸凹して塊を形成するケコス型、ジグザグ型などの住宅が、繰り返されるリズムの中に配置された。
5mの立方体を1単位として、それとその半分のサイズの組み合わせによる幾何学的な住宅にすることで、標準化された安価な量産住宅をつくろうとしたが、実験的な試みが多かったため、最終的には高くついてしまった。
木や石、鉄筋コンクリ―トなどによってつくられたが、セメントガンで表面は質感を隠し、白、こげ茶、薄緑、ブルー、ピンクといったさまざまな色で塗装することで、重量感を軽減し、光と影を強調しようとした。
カラフルな四角い箱が並ぶ街区の様子は現在見ても古びていないが、当時は、田舎町にこのような住宅は新しすぎて受け入れられず、水道や電気が引けず、3年間空き家状態が続いたという。
その後に入居した住民たちが陸屋根に三角屋根を付けたり、窓周りに装飾を加えたりするなどの改変を行ってしまった結果、すっかりオリジナルの姿が失われたが、1980年代になってから、住宅建築としての重要性が認識され、文化財に指定され、修復作業がすすめられた。現在では1棟が展示棟として公開され、他の住戸は大切に住まわれている。
ギエット邸
ベルギー
ベルギーに現存する唯一のル・コルビュジエの建築作品で、画家であるルネ・ギエット氏のためのアトリエ兼住宅である。
(ベルギーでは、1958年のブリュッセル万博でパビリオン《フィリップス館》を手掛けたが会期終了後撤去されている)
間口9メートルで奥行が深い細長い敷地に建ち、前面は道路に面しているが、住宅後ろには庭が広がっている。
平面は1対2の2倍正方形を基準に、黄金比なども用いてデザインされている。
玄関側のファサードと庭側のファサードは、ちょうど上下反転したデザインになっている。
居間を1階に置くことが望まれたため、ピロティは用いられていない。
ル・コルビュジエのスタジオの特徴である高い天井高を、3階上部を吹き抜けにすることで実現している。
「シトロアン型住宅」の発展形である。
ワイセンホーフ・ジードルングの住宅
ドイツ
ドイツ工作連盟が主催し、ミース・ファン・デル・ローエがディレクターとなって、十数名の新進気鋭の建築家に声をかけて実現させた新しい住宅建築を紹介する「住宅建築博」に、ル・コルビュジエは1家族用と2家族用の2棟の住宅を建設した。
短期間の建設だったため、現場には弟子のアルフレット・ロートが常駐して実現につとめた。
吹き抜けや壁面のカーブの表現に、この時期のル・コルビュジエらしさが見られ、可動間仕切りの棚や収納式ベッドなどによって、一つの空間を昼夜2パターンで使うなど、空間を有効利用できる工夫がなされており、こうした工夫が最小限住宅の提案へとつながっていった。
一家族用住宅 (Bruckmannweg 2) 住宅No.13
シトロアン住宅の実現化。
シトロアン型量産住宅案(1922)においてル・コルビュジエは、「自動車のような家屋」、「列車や船室のように構想、処理された住宅」、「道具としての住宅」、「タイプライターのように便利な家」を構想したと語っている。
二家族用住宅 (Rathenaustrasse 1-3) 住宅No.14&15
70センチ幅の廊下の内側に、列車のコンパートメントを意識して、キッチン、バス、リビング、寝室など住宅の機能を全て押し込んだ。ベッドは、昼間は折りたためるようになっており、可変式間仕切りによってあらゆる生活の多様性に対応できるフリープラン(シングル・ルーム)が考えられている。
サヴォア邸と庭師小屋
フランス
《サヴォア邸》の敷地に入ってすぐ、門の横に建つ小さな白い住宅が《門番の家》である。この地を見学に訪れる人は、この住宅を視界の端に留めながらも、その多くは通り過ぎてしまう。しかし、この小さな住宅にも彼の新しい住まいへの提案がなされている。
1階にはシャワールームや洗濯室、倉庫があり、外階段(内階段は無い)を上がると、2階に玄関、リビングルーム、キッチン、寝室、バスルームがある。
小さいながらも、「新しい建築の5つの要点」のうち屋上庭園以外の要素がきちんと盛り込まれている。
ル・コルビュジエが当時関心を持っていたテーマの一つに、量産可能な小住宅があった。
《サヴォア邸》の時期には、いくつかの先行、あるいは同時進行していたプロジェクトがあったが、1927年にはドイツの《ワイセンホーフ・ジードルング》で1家族用、および2家族用の住宅を手がけ、1928年には「ルシュール住宅案」において、プレハブ素材と現地産の石などの素材を用いた、低所得者層向けの住宅計画などに取り組んでいた。
《門番の家》は、この系列上にあるコンパクトな住宅で、こうした住宅の工夫は《ユニテ・ダビタシオン》や《カップ・マルタンの休暇小屋》《ロンシャンの巡礼者用施設》といった住空間作りへと展開されていく。
イムーブル・クラルテ
スイス
鉄やガラスを扱うエドモン・ヴァネールとの協働ですすめた集合住宅で、黒い外観とオレンジ色のシェードが印象的である。
《イムーブル・クラルテ》《スイス学生会館》《ナンジェセール・エ・コリのアパート》の三つには、黒い鋼製の窓枠、スライディング窓、ガラスブロックを使った不透明な表現など、共通する表現が多く見られる。これらに共通するのが、エドモン・ヴァネールである。
《イムーブル・クラルテ》は、ル・コルビュジエが「イムーブル・ヴィラ」(1922)で提案した垂直型の共同住宅の実現第一号であった。
9階建て45戸の集合住宅には、さまざまなプランがあり、二層吹抜けタイプの構成はユニテ・ダビタシオンを想起させる。アパート断面のイメージスケッチ、屋内にむき出しのH型鋼柱や鋼管製手すりなどは船を思わせ、ここにも、豪華客船のイメージからスタートした《ユニテ》との共通点が認められる。床や階段の踏み板はガラスブロックとなっており、階段塔を通してトップライトからの光がどこまでも入るように工夫され、「クラルテ(=光)」という名前のとおり、階段室は非常に明るい。こうしたファサードの処理、ガラスブロックの使用、階段塔の光の処理はそのままパリの自宅アパートへと引き継がれて行く。
ナンジェセール・エ・コリのアパート
(ポルト・モリトーの集合住宅)
フランス
隣接する建物と同時期に開発された 南隣はM.ルー・スピッツによるアパルトマン(1931年)で、北隣はシュナイダーによるもの(1931年)であり、真ん中に建つル・コルビュジエのアパルトマンは両隣のアパルトマンの既存の壁をうまく利用している。
ファサードを印象づけるのは黒いフレームで縁取られた大きなガラスとガラスブロックによる窓である。
東側にナンジェセール・エ・コリ通り、西側にトゥレル通りがあり、表・裏が生じないように、両方に面したファサードは全く同じ顔をしている。
パラペットの高さ、通り側壁面の一致、バルコニーや柱間の窓の大きさや配置は規則で決められていて、それに従ってデザインされた。
平面はΣ型で、塞がれた部分は中央部が吹抜けになっていて、光を取り入れる塔の役割を果たし、内側の部屋にも光が降り注ぐ。
コルの部屋を見ると、大部分は塗装仕上げだが、アトリエ部分は煉瓦、石積みの壁面を露出させている。
セントラルヒーティング、洗濯&乾燥室、地下のガレージ、使用人用の庭に面した1階と地下の部屋など、「新しい生活をかなえます」と宣言した言葉通りの理想的な設備を整えた。
世界恐慌のあおりをうけ、開発業者からの支払いが不能、居住者が入らないなどの窮地を、友人のピエール・ウィンターやフランソワ・ド・ピエールフウらが助けた。
ル・コルビュジエはこのアパルトマンの最上階と屋上を独占し、片方をアトリエ、片方を住まいとしている アトリエは、煉瓦、石積みの壁面を露出させている 住まいの部分は妻イヴォンヌからのアイデアもとりいれた。
自宅のアトリエはヴォールト天井で、高窓から光が差しこむ。「芸術家の家案」(1922)、「ヴォールト屋根の自宅案」(1929)で同様のアトリエを考えており、ここにおいて彼はついに憧れのヴォールト屋根の家を手に入れた。
1948年、1962年にリノベーションが行われた際、サッシュは取り替えられた。
サン・ディエのデュヴァルの織物工場
フランス
ル・コルビュジエが手掛けた唯一の工場。
施主は、チューリッヒ理工科大学出身のエンジニアで、ル・コルビュジエの長年の友人であるジャン・ジャック・デュヴァル氏である。
彼は故郷サン・ディエ(フランス北東部)が戦争で被災したことを受け、ル・コルビュジエに街の再建を頼もうと尽力するが、反対を受けて実現には至らず、そこで、デュヴァル家が営んできた織物工場の再建をル・コルビュジエに依頼することとした。
建物は全長80m、幅12.54m、高さ18mである。妻壁は53cmの厚みがあり、ここには旧工場で使われていた石が再利用されている。
1階には駐車場と管理人室があり、作業室・倉庫はピロティの上に建てられ、最上階には屋上庭園と事務室が設けられている。
ル・コルビュジエがつくった独自の尺度「モデュロール」が、寸法を決定するために採用されている。
この時期、ル・コルビュジエは多忙でアトリエを留守にしていたため、所員であったアンドレ・ヴォジャンスキーが中心となって、デュヴァルと打ち合わせを交わして設計をすすめた。
街の日照を検討したうえで、特徴的な「ブリーズ・ソレイユ」(日除けのルーバー)を提案したのはヴォジャンスキーである。
マルセイユのユニテ・ダビタシオン
フランス
ル・コルビュジエは戦後の都市復興に関わりたいと働きかけ続けたきたが、その機会は得られなかった。そのとき、復興大臣ラウル・ドトリーからの直接の依頼を受けたのが、港湾都市マルセイユにユニテを建てることだった そして、これはル・コルビュジエにとって初めてのフランスでの公共の仕事であった。
マルセイユはル・コルビュジエにとって「ホメロス的な景観、地中海を通じた人的・物的交通の到着点、文化と技術交流の交差路」であった 敷地は二転三転したのち、ミシュレ通りに面した約3.7haの四角い敷地に決定した。ミシュレ通り側(東側)と海側(西側)が主要なファサードとなっており、各住戸のロジア側壁の色彩が快活な印象を与え、打ち放しコンクリートの外観に躍動感を与えている 南側にもロジアや窓があるが、北側は窓のないコンクリートの壁である。
緑地の真ん中に太陽を浴びてそびえる《ユニテ》は、「鉛直方向の庭園都市」や「豪華客船」のコンセプトを実現し、彼が考案してきたさまざまなアイデアの統合である。
長さ135.5m、幅24.4m、高さ56mの巨大な箱は、主構造、基礎、支柱、人工床盤はすべて現場打ちの鉄筋コンクリート、ファサードやロジアのパネル類はプレハブで作られており、基準となっているのは、人体寸法を元にした尺度「モデュロール」であった。
地上を解放し、設備類を収めたピロティの層(1層)、商店(食料品店、レストラン、郵便局など)が入る中間層(8層)、幼稚園やジム、プール、屋上庭園、屋上をぐるりと走れるコース、演劇や集会をするための舞台がある屋上(17層)の間に、23タイプ337戸の住戸が収められた。生活に必要な機能を備えている適正な規模の住まいの単位であることから、「アパート」ではなく、「ユニテ・ダビタシオン(Unité d’habitation)」と名付けられ、その後の集合住宅の原点となった。
なお、ピロティの上、本棟の床下部分の層は空洞となっており、設備関連一式がその部分に収められている そのため、太いピロティの脚はユニテを支えているだけでなく、内部はパイプスペースとなっており、電気をはじめ、さまざまな配管が入っており、メンテナンス時にはこの中に入って作業する。
インテリアはシャルロット・ペリアン、ジャン・プルーヴェとの協働である。
代表的なメゾネットタイプ・・・・薄暗い中廊下に面した玄関から入ると、太陽の陽射しが一気に差し込んでくる。キッチンの先に吹き抜けのリビングがあり、住戸内階段を上がると、上階には、吹き抜けに面した主寝室、そしてバスルーム、子供部屋が配されている 東西両方に開いているため、それぞれの方角から午前中と午後の眩しい地中海の太陽を享受できる 各住戸の全面ガラスはオーク材の枠がついた開き戸で、ロジアは部屋の延長部分として利用される。
ロンシャンの礼拝堂
フランス
「建築の魂は、ヴォリューム、リズム、光と影に在ります。昨今の技術革新は、私を建築全般についての深い考察へと導きました。そして今、精神性を宿す建築に大きく惹かれています」とル・コルビュジエは1945年に語っている。彼はカトリック信者ではなかったものの、このときすでに教会建築を引き受ける下地がすでにできていたといえよう。
ロンシャンは古くから巡礼地として知られ、大巡礼の際には数千人が丘を登って、この地を訪れる。それが1944年の空爆で破壊され、村では再建を望む声が上がっていた。この再建のために依頼されたル・コルビュジエは、「偉大な建築家が必要であり、あなたは調和、人間の精神、幸福を常に考えている」とのクチュリエ神父からの後押しもあり、この教会建築に取り組むことを決意した。
すべてが曲面からできている、カニの甲羅のような、あるいは、帽子をかぶったような不思議な形をしたこの教会は、その小さい白い姿を丘の頂きに現し、人びとはそれを目指して歩いていく。この礼拝堂を印象づける、南東方向に向かって突き出して尖った屋根の形態は、ル・コルビュジエの後期絵画によく登場する、「角」や「翼」のモチーフを連想させる。そして、大きな塔と屋根の形を側面から見ると、その輪郭は、聖母マリアに祈りを捧げるこの礼拝堂にふさわしく、彼が描いていた「子を抱く母親(=聖母子像)」のスケッチを思い出させる。彼は「沈黙、内面的な祈りの場」をつくったと語っているが、光と色彩に満ちた空間には、「えもいわれぬ」美しさに満ちている。
鉄筋コンクリート造ではあるが、壁には破壊された折に残された旧礼拝堂の煉瓦や石材が用いられている。
最初に目に入る南面は大きく湾曲し、壁には多くの穴が開けられ、この開口から色ガラスを通した光がランダムに拡散する。また、3つの塔内部の小祭壇には、トップライトからの官能的なまでの光が降り注いでくる。光と影が荘厳で神聖な空間を作り出している。
祭壇上部に安置されている戦災をまぬがれた聖母子像は、年に一度の大祭の際にはぐるりと回転して、東側の屋外祭壇を方を向く仕掛けとなっている。
屋内には祭壇、小祭壇、告解室があり、床の石の割り付けはモデュロールによっている 椅子はル・コルビュジエと彫刻を共同制作しているジョセフ・サヴィナによるもので、祭壇のデザインはル・コルビュジエ本人による。
おおきく膨らみ、垂れ下がった重そうな屋根は、じつは飛行機の翼と同様、中が空洞で、軽い作りとなっている。
カップ・マルタンの休暇小屋
フランス
コートダジュールきってのリゾート地ニースからイタリア国境に向かって少し行った小さな岬カップ・マルタンの付け根の集落がル・コルビュジエのお気に入りであった。ここにル・コルビュジエが妻イヴォンヌへのプレゼントとして作ったのが《休暇小屋》である。
人体寸法と黄金比を元にしたル・コルビュジエ・オリジナルの尺度「モデュロール」を用いた、こじんまりとした10畳ほどの小屋。高さの違う什器が効果的にらせん状になるように配置されている。内装はベニヤ、外装は丸太 室内はカラフルに彩色されている。
70×70㎝角の窓が2つ、70×30㎝の窓が一つ、換気用の縦長の窓が2つあるだけで、開放的というよりは隠れ家のような空間である。
K・フランプトンは窓の扱いに注目している。北側はベッドの高さのところに細長い片開き。東側は洗面の横に両開き。南側は内側の鏡が景色を内に取り込み、座った位置から仰ぎ見る視覚だ。切り取る風景画が方角と目線の高さを違えて見せる演出をしている。
隣接する居酒屋「ひとで」とは、屋内の扉で両者はつながっているのだが、これは《休暇小屋》には台所が無く、食事は「ひとで」で摂っていたためである。
小屋の下には、ル・コルビュジエが大変気に入っていたアイリーン・グレイ設計による海辺の家《E1027》があり、彼は勝手にここに壁画を描き、グレイから非難されていた。
1957年にイヴォンヌが亡くなってからは、一人で訪れていたが、1965年8月27日、ル・コルビュジエはここの下の海岸で海水浴中に心臓麻痺をおこして亡くなった。
クルチェット邸
アルゼンチン
4層からなる住宅および診療所は、医師のペドロ・クルチェットとその家族のために建てられた。医師クルチェット博士が、診療所兼住宅の設計を依頼したが、ル・コルビュジエとの直接のやり取りはパリにいた博士の姉が行い、地元の建築家アマンシオ・ウィリアムスが現場を担当した。結局、ル・コルビュジエは一度も現地を訪れなかった。
緑に覆われた公園と19世紀に計画されたラ・プラタの大通りに面し、この通りによって正面が60度に切り取られ、三方を新古典主義様式の既存の建物で囲われた敷地に建っている。
サヴォア邸の20年後に計画された《クルチェット邸》は「新しい建築の5つの要点」および、スロープといったル・コルビュジエ特有の建築的要素からなっている。
1階がエントランス、車庫、中庭 / スロープ折り返しの踊り場(中2階)が居住部のエントランス / スロープを上がった2階が診療所 / 3階と4階が住まいという構成である。
ピロティは通りに面した診療所を持上げ、車庫の空間を作っている。正面扉を入ると、中庭に育つ1本の樹木とそれに対応するかのような等間隔ではなく林立する柱の空間と彫刻が置かれた中庭が現れる。そこは外部の明るさとは対照的な光と影の演出であり、その空間をスロープが横切っている。スロープを登ると、光と影、内部と外部が生み出す対比的な空間に、ル・コルビュジエの建築的プロムナードの詩的な力を感じることができる。スロープは診療所と住宅双方への巧みな個別のアクセスとなっていて、公私の空間をうまく分離させ、上階における住宅のプライバシーは守られている。住宅部分には2.26mとその2倍の天井高をもつリビングの空間、そして緑あふれる景色を切り取るキャノピーへと空間が開ける。食堂、寝室、下階の診療所はすべて、太陽の向きと外の景色を考慮しながら方向が決定され、最大限にランドスケープを享受できる建物となっている。
太陽の動きを考慮し、北向きの強い陽射し(南半球のため、北向きは日当たりが良い)を調整するために、建物前面には鉄筋コンクリート製の日除け(ブリーズソレイユ)が取り付けられ、正面部分の奥行を巧みに操作し、屋上庭園には半分に背の高いパラソル屋根がついている。
現在は地元の建築家協会が管理している 映画『ル・コルビュジエの家』(2012年日本公開)は、この住宅が舞台となって物語が展開している
チャンディガールのキャピトル・コンプレックス
インド
第二次世界大戦後のパキスタン分離独立によって、インド北西部のパンジャブ州には、新しい州都を建設することとなった。
インド政府は別の建築家チームに依頼したが、主任建築家が事故死したことから、新しい建築家を探さなくてはならなくなり、そこで白羽の矢が当たったのがル・コルビュジエであった。
1950年に要請を受けたル・コルビュジエは、翌年から1964年の間、何度もインドを訪れて、マクスウェル・フライ、ジェーン・ドリュー、ピエール・ジャンヌレとともに、全体計画(公共交通、ゾーニング、各セクターの建築など)からキャピトルの各建築の設計に力を注いだ。
植栽計画に力を注いだチャンディガールは、現在では「ガーデンシティ」ともよばれ、インド屈指の緑にあふれる都市に発展した。
ラ・トゥーレットの修道院
フランス
《ロンシャンの礼拝堂》にも関わったクチュリエ神父からの依頼によって、ル・コルビュジエは再びカトリックの施設に取り組むこととなった。
修道院という施設は、修道僧が集団生活をする住居という生活の場と、学び、静かに祈り思索する宗教的な場という、二つの役割をもつ。13世紀に確立されたドミニコ会の決まりに従ったプログラムが求められ、100の僧房と図書室、研究室、会議室、食堂、教会などからなり、北側に礼拝堂が位置し、その南側にそれ以外の施設が、中庭を囲んで「コ」の字型に配され、全ては回廊でつながっている。《ラ・トゥーレット》は《ロンシャン(礼拝堂)》と《ユニテ・ダビタシオン(集合住宅)》での経験を生かし、それらを統括して作り上げた作品である。
ル・コルビュジエは、クチュリエ神父に勧められて見に行った《ル・トロネの修道院(南フランス)》だけでなく、《エマの修道院(イタリア)》、アトス山(ギリシャ)の修道院、ガルダイア(アルジェリア)のモスクなど、かつて訪れたことがあった宗教建築を参照にしたと思われる。
ピロティで持ち上げられた5階建てだが、敷地が急な斜面のため、もっとも高い東側にエントランスを置き、ここが3階にあたる。このフロアをはさんで上下に展開する構成となっている。ピロティは全体のボリュームに対して、個々の脚は細く、数が多く、斜めのアーチ状の形をしているものもあり、中庭に入ると、樹木に囲まれたように感じられ、森を見上げるところに修道院が建っているような印象を与える。礼拝堂棟のみピロティをもたず、コンクリートのマッシブな塊が、緑の斜面にどっしりと腰を据えていて、ピロティ部分との違いを際立たせている。
《ラ・トゥーレットの修道院》では随所に対比の面白さを見ることができる。
コンクリートは表面には石をはめ込んで、ざらざらな仕上げになっていて、ガラス面との差が際立っている。さらに、ところどころアクセントで用いられた原色が目を引きつける。
ここではさまざまな形の窓があるが、市松模様に開けられた正方形の窓、水平方向に伸びる廊下部分の細長いスリット、幅の違う縦の細い桟が入った幾何学的な窓の割り付け(波動的なガラス面)などが、垂直・水平の対比を強調している。これらはモデュロールの寸法を使った窓割りが生んだリズムであり、同様に礼拝堂内部では床、壁、天井において、コンクリートの目地割りが異なるリズムを生みだしている。
礼拝堂は大きな四角いコンクリートの箱だが、祭壇には朝、昼、夕方と異なる方角からの光が差しこみ、さらに「光の大砲」「光の機関銃」と呼ぶトップライトからの光が壁面に塗られた色彩と相まって静謐な祈りの空間を生み出している。
一方、修道士たちの部屋は実に簡素である。必要最低限のものしか持たず、祈りと学問に生活を捧げる、彼らの静かな暮らしのためにル・コルビュジエが用意したのは、モデュロールの寸法によってつくった質素ながら落ち着く空間であった。
国立西洋美術館
日本
日本に残されたル・コルビュジエ唯一の作品である。
戦争中、フランスに残されていた松方幸次郎氏の「松方コレクション」が、フランスから日本に返還されるにあたり、条件として提示されたのが、コレクションを収蔵展示するための美術館の建設であった。
ルーヴル美術館のジョルジュ・サール館長の助言を得て、ル・コルビュジエが設計者に決まり、ル・コルビュジエが基本設計を行い、弟子である前川國男、坂倉準三、吉阪隆正らが実施設計、監理を担当した。ル・コルビュジエは敷地を見るために一度だけ来日を果たしている(1955年11月)。
ル・コルビュジエは美術館建築に強い思いを抱いており、1920年代からさまざまな美術館計画案を提示してきたが、実現したのはチャンディガールとアーメダバード、そして上野の3館だけであった。いずれも、建物の中心から巻貝の殻のようにらせん状に広がっていく回廊状の展示室を置き、収蔵品が増えれば外側に増築できる「無限成長美術館」を基本としている。
ル・コルビュジエは、松方コレクションのための美術館だけでなく、実験劇場や企画展示施設、図書館、講堂、観客休憩所などからなる「芸術文化センター」的なものを構想していたが、収蔵作品を展示するための美術館以外は実現にはいたらなかった。
およそ40m四方の美術館は、足元をピロティによって支えらえている。直径60センチの柱は力強く、型枠に使用したヒメコマツの木目が本物の樹木を思わせるように美しい。さらに小石をぎっしり詰め込んだ外壁はあたかも菓子の「雷おこし」のような表面であり、外壁のコンクリートパネル、柱には、コンクリートの表情の多様さを見ることができる。
半屋外空間のピロティから中に入り、中央の「19世紀ホール」が展示空間のスタートである。ここにはル・コルビュジエ本人による写真壁画を予定していたが、時間切れで実現できなかった。ここでは北側を向いた吹き抜けの高いトップライトからの柔らかな自然光のもとで彫刻などを鑑賞した後、ゆるやかにスロープを進み、ホールを見下ろしながら、低い天井を抜けて2階の展示室へと入っていく。
2階の展示室は、角を曲がるごとに狭い空間や高い空間が現れ、ところどころではホールを見下ろすバルコニーがあり、また、外を眺められるベンチのコーナーがあるなど、変化に富んだ空間である。寸法はモデュロールで決められ、低い部分は226cm、高い部分はほぼその2倍の高さである。
低い天井の上の、ガラスに囲まれた部屋状の部分は、トップライトからの自然光を効率よく展示室にもたらすための「照明ギャラリー」だが、自然光の紫外線は作品に悪影響を及ぼすことから、現在は人工照明を中に入れている。
フィルミニの文化の家
フランス
フランス中部、大都市リヨン郊外に位置する、再開発が望まれていたフィルミニ市に、市長として就任したのが戦後の復興大臣でありル・コルビュジエと交友のあったクロディウス・プティ氏であった。当時開発をすすめようとしていたのが、旧市街と新市街を結ぶ、すり鉢状のエリア「フィルミニ・ヴェール地区」であり、プティ市長はル・コルビュジエにここにいくつかの建物をつくることを依頼し、《文化の家》《スタジアム》《サン・ピエール教会》《ユニテ・ダビタシオン》が実現した。そのなかで《文化の家》が世界文化遺産に登録された。
全長112mの細長い建物で、各7mのブロックが16スパン続く形状となっている。屋根は132本のケーブルで支えられ、その上に10センチ厚のコンクリートで覆いをし、屋根としているため、側面からは張り出した先端部分を頂点に描かれた放物線が作り出す、緩やかなU字型となっている。そして、隣接するスタジアム側にせり出し、下から見上げると上に反り返ったように見える。
鋭角ではないのでV字とはいえないが、側面のその凹んだ部分に水落としが付いているのは、《レ・マトゥの家》《ロンシャン礼拝堂》《高等裁判所》などと同様である。
サブグラウンドに面した側は、モデュロールによってリズミカルに窓割りされ、挿入された色によって軽快な印象を与える。一方、妻側はコンクリートで塞がれ、浮彫が施されている。
ル・コルビュジエは何度もフィルミニに訪れたが、最後の訪問は亡くなる3か月前(1965年5月)であり、その後は弟子のヴォジャンスキーが後を継いだ。
© FLC
スイス
両親のための60㎡ほどの小さな家で、家のプランを練り上げてから、それが収まるような美しい眺望の敷地を探し、その結果、レマン湖畔の北東部の風光明媚な小村コルソーの細長い敷地に建てられた。11mにおよぶ横長の連続窓からは、まさに船窓から見るかのような景色が望め、庭の一隅はピクチャーウィンドウによって切り取られた景色が楽しめる。
寝室、居間などのスペースが緩やかにつながり、小さいながらも機能的な住宅である。湖側のテーブルは可動式で、生活に合わせて窓下のレールに沿って、スライドさせることができる。
また、客間は、狭いながらも収納式のベッドや洗面台などを設置することで空間をうまく利用している。
陸屋根はほんの少し傾斜がつけられ、水はけを良くしてあり、屋上は緑に覆われ、屋上緑化のはしりである。
屋上に上る外階段の上部には、愛犬が外を見渡せるような台が設けられているのも面白い。
地下室の浮力のせいで壁にひびが入ったため、湖側ファサードは後にアルミの薄板で覆われた。
ル・コルビュジエの父ジョルジュは1926年に亡くなったが、母マリーは1960年に100歳で亡くなるまで長くこの家に住み続けた。
フランス
独身のラウル・ラ・ロッシュ氏の家と、ル・コルビュジエの兄であるアルベール・ジャンヌレ夫妻の家の2棟続きの住宅である。
この住宅では様々な建築的試みがなされている。まずここで、初めてピロティが実現された。ギャラリー棟が持上げられ、それによって、浮遊するボリュームが生まれた。
《ラ・ロッシュ邸》は、吹き抜けの大きな玄関ホールを中心に階段、ブリッジ、見下ろし台などが配され、ラ・ロッシュ氏のコレクションを展示してみせるためのギャラリー部分では、湾曲した壁沿いにスロープを設けることで、散策へといざない、空間に時間性を導入することで、「建築的プロムナード」を演出している。
さらに、ラ・ロッシュ+ジャンヌレ邸の平面には、幾何学的に整理された構図の中で、いくつもの線が重なり合いながら、線が連綿とつながっていく彼の絵画作品の表現と相通じるものが読み取れる。
そして、白を基調に、陰部分には暗めの色、明るい壁には赤、というように、色彩による建築的カモフラージュが試みられている。
この住宅は、ル・コルビュジエによる「住宅構成の4つの型」の第一番目に挙げられ、「各構成部分が、その有機的構成理由に従って、他の部分に隣接する」、「内部が自ずから広がり、その結果として外部が決定される」という手法で構成されている。
もともとは別の3者のための計画であったが頓挫し、施主が替わったという経緯がある。ちなみに、同敷地の右隣には「ヴォワザン自動車・飛行機工場」の支配人であるモンジェルモン氏のための住宅を計画したが実現しなかった。
現在はル・コルビュジエ財団本部の建物となっており、《ジャンヌレ邸》は事務局、資料室となり、《ラ・ロッシュ邸》は一般公開されている。
フランス
ル・コルビュジエに心酔した事業家アンリ・フリュジェス氏が、自分の工場労働者たちのための住宅を大量に建設しようと計画し、その実施をル・コルビュジエに頼んだ宅地開発事業である。当初200戸あまりを予定していたが、実際に完成したのは約50戸あまり。それでも、色とりどりの住宅が立ち並ぶ街路の景観は圧巻である。3階建ての摩天楼型から、アーチ状の屋根のテラスで連結されるアーケード型や、凸凹して塊を形成するケコス型、ジグザグ型などの住宅が、繰り返されるリズムの中に配置された。
5mの立方体を1単位として、それとその半分のサイズの組み合わせによる幾何学的な住宅にすることで、標準化された安価な量産住宅をつくろうとしたが、実験的な試みが多かったため、最終的には高くついてしまった。
木や石、鉄筋コンクリ―トなどによってつくられたが、セメントガンで表面は質感を隠し、白、こげ茶、薄緑、ブルー、ピンクといったさまざまな色で塗装することで、重量感を軽減し、光と影を強調しようとした。
カラフルな四角い箱が並ぶ街区の様子は現在見ても古びていないが、当時は、田舎町にこのような住宅は新しすぎて受け入れられず、水道や電気が引けず、3年間空き家状態が続いたという。
その後に入居した住民たちが陸屋根に三角屋根を付けたり、窓周りに装飾を加えたりするなどの改変を行ってしまった結果、すっかりオリジナルの姿が失われたが、1980年代になってから、住宅建築としての重要性が認識され、文化財に指定され、修復作業がすすめられた。現在では1棟が展示棟として公開され、他の住戸は大切に住まわれている。
ベルギー
ベルギーに現存する唯一のル・コルビュジエの建築作品で、画家であるルネ・ギエット氏のためのアトリエ兼住宅である。
(ベルギーでは、1958年のブリュッセル万博でパビリオン《フィリップス館》を手掛けたが会期終了後撤去されている)
間口9メートルで奥行が深い細長い敷地に建ち、前面は道路に面しているが、住宅後ろには庭が広がっている。
平面は1対2の2倍正方形を基準に、黄金比なども用いてデザインされている。
玄関側のファサードと庭側のファサードは、ちょうど上下反転したデザインになっている。
居間を1階に置くことが望まれたため、ピロティは用いられていない。
ル・コルビュジエのスタジオの特徴である高い天井高を、3階上部を吹き抜けにすることで実現している。
「シトロアン型住宅」の発展形である。
ドイツ
ドイツ工作連盟が主催し、ミース・ファン・デル・ローエがディレクターとなって、十数名の新進気鋭の建築家に声をかけて実現させた新しい住宅建築を紹介する「住宅建築博」に、ル・コルビュジエは1家族用と2家族用の2棟の住宅を建設した。
短期間の建設だったため、現場には弟子のアルフレット・ロートが常駐して実現につとめた。
吹き抜けや壁面のカーブの表現に、この時期のル・コルビュジエらしさが見られ、可動間仕切りの棚や収納式ベッドなどによって、一つの空間を昼夜2パターンで使うなど、空間を有効利用できる工夫がなされており、こうした工夫が最小限住宅の提案へとつながっていった。
一家族用住宅 (Bruckmannweg 2) 住宅No.13
シトロアン住宅の実現化。
シトロアン型量産住宅案(1922)においてル・コルビュジエは、「自動車のような家屋」、「列車や船室のように構想、処理された住宅」、「道具としての住宅」、「タイプライターのように便利な家」を構想したと語っている。
二家族用住宅 (Rathenaustrasse 1-3) 住宅No.14&15
70センチ幅の廊下の内側に、列車のコンパートメントを意識して、キッチン、バス、リビング、寝室など住宅の機能を全て押し込んだ。ベッドは、昼間は折りたためるようになっており、可変式間仕切りによってあらゆる生活の多様性に対応できるフリープラン(シングル・ルーム)が考えられている。
フランス
《サヴォア邸》の敷地に入ってすぐ、門の横に建つ小さな白い住宅が《門番の家》である。この地を見学に訪れる人は、この住宅を視界の端に留めながらも、その多くは通り過ぎてしまう。しかし、この小さな住宅にも彼の新しい住まいへの提案がなされている。
1階にはシャワールームや洗濯室、倉庫があり、外階段(内階段は無い)を上がると、2階に玄関、リビングルーム、キッチン、寝室、バスルームがある。
小さいながらも、「新しい建築の5つの要点」のうち屋上庭園以外の要素がきちんと盛り込まれている。
ル・コルビュジエが当時関心を持っていたテーマの一つに、量産可能な小住宅があった。
《サヴォア邸》の時期には、いくつかの先行、あるいは同時進行していたプロジェクトがあったが、1927年にはドイツの《ワイセンホーフ・ジードルング》で1家族用、および2家族用の住宅を手がけ、1928年には「ルシュール住宅案」において、プレハブ素材と現地産の石などの素材を用いた、低所得者層向けの住宅計画などに取り組んでいた。
《門番の家》は、この系列上にあるコンパクトな住宅で、こうした住宅の工夫は《ユニテ・ダビタシオン》や《カップ・マルタンの休暇小屋》《ロンシャンの巡礼者用施設》といった住空間作りへと展開されていく。
スイス
鉄やガラスを扱うエドモン・ヴァネールとの協働ですすめた集合住宅で、黒い外観とオレンジ色のシェードが印象的である。
《イムーブル・クラルテ》《スイス学生会館》《ナンジェセール・エ・コリのアパート》の三つには、黒い鋼製の窓枠、スライディング窓、ガラスブロックを使った不透明な表現など、共通する表現が多く見られる。これらに共通するのが、エドモン・ヴァネールである。
《イムーブル・クラルテ》は、ル・コルビュジエが「イムーブル・ヴィラ」(1922)で提案した垂直型の共同住宅の実現第一号であった。
9階建て45戸の集合住宅には、さまざまなプランがあり、二層吹抜けタイプの構成はユニテ・ダビタシオンを想起させる。アパート断面のイメージスケッチ、屋内にむき出しのH型鋼柱や鋼管製手すりなどは船を思わせ、ここにも、豪華客船のイメージからスタートした《ユニテ》との共通点が認められる。床や階段の踏み板はガラスブロックとなっており、階段塔を通してトップライトからの光がどこまでも入るように工夫され、「クラルテ(=光)」という名前のとおり、階段室は非常に明るい。こうしたファサードの処理、ガラスブロックの使用、階段塔の光の処理はそのままパリの自宅アパートへと引き継がれて行く。
(ポルト・モリトーの集合住宅)
フランス
隣接する建物と同時期に開発された 南隣はM.ルー・スピッツによるアパルトマン(1931年)で、北隣はシュナイダーによるもの(1931年)であり、真ん中に建つル・コルビュジエのアパルトマンは両隣のアパルトマンの既存の壁をうまく利用している。
ファサードを印象づけるのは黒いフレームで縁取られた大きなガラスとガラスブロックによる窓である。
東側にナンジェセール・エ・コリ通り、西側にトゥレル通りがあり、表・裏が生じないように、両方に面したファサードは全く同じ顔をしている。
パラペットの高さ、通り側壁面の一致、バルコニーや柱間の窓の大きさや配置は規則で決められていて、それに従ってデザインされた。
平面はΣ型で、塞がれた部分は中央部が吹抜けになっていて、光を取り入れる塔の役割を果たし、内側の部屋にも光が降り注ぐ。
コルの部屋を見ると、大部分は塗装仕上げだが、アトリエ部分は煉瓦、石積みの壁面を露出させている。
セントラルヒーティング、洗濯&乾燥室、地下のガレージ、使用人用の庭に面した1階と地下の部屋など、「新しい生活をかなえます」と宣言した言葉通りの理想的な設備を整えた。
世界恐慌のあおりをうけ、開発業者からの支払いが不能、居住者が入らないなどの窮地を、友人のピエール・ウィンターやフランソワ・ド・ピエールフウらが助けた。
ル・コルビュジエはこのアパルトマンの最上階と屋上を独占し、片方をアトリエ、片方を住まいとしている アトリエは、煉瓦、石積みの壁面を露出させている 住まいの部分は妻イヴォンヌからのアイデアもとりいれた。
自宅のアトリエはヴォールト天井で、高窓から光が差しこむ。「芸術家の家案」(1922)、「ヴォールト屋根の自宅案」(1929)で同様のアトリエを考えており、ここにおいて彼はついに憧れのヴォールト屋根の家を手に入れた。
1948年、1962年にリノベーションが行われた際、サッシュは取り替えられた。
フランス
ル・コルビュジエが手掛けた唯一の工場。
施主は、チューリッヒ理工科大学出身のエンジニアで、ル・コルビュジエの長年の友人であるジャン・ジャック・デュヴァル氏である。
彼は故郷サン・ディエ(フランス北東部)が戦争で被災したことを受け、ル・コルビュジエに街の再建を頼もうと尽力するが、反対を受けて実現には至らず、そこで、デュヴァル家が営んできた織物工場の再建をル・コルビュジエに依頼することとした。
建物は全長80m、幅12.54m、高さ18mである。妻壁は53cmの厚みがあり、ここには旧工場で使われていた石が再利用されている。
1階には駐車場と管理人室があり、作業室・倉庫はピロティの上に建てられ、最上階には屋上庭園と事務室が設けられている。
ル・コルビュジエがつくった独自の尺度「モデュロール」が、寸法を決定するために採用されている。
この時期、ル・コルビュジエは多忙でアトリエを留守にしていたため、所員であったアンドレ・ヴォジャンスキーが中心となって、デュヴァルと打ち合わせを交わして設計をすすめた。
街の日照を検討したうえで、特徴的な「ブリーズ・ソレイユ」(日除けのルーバー)を提案したのはヴォジャンスキーである。
フランス
ル・コルビュジエは戦後の都市復興に関わりたいと働きかけ続けたきたが、その機会は得られなかった。そのとき、復興大臣ラウル・ドトリーからの直接の依頼を受けたのが、港湾都市マルセイユにユニテを建てることだった そして、これはル・コルビュジエにとって初めてのフランスでの公共の仕事であった。
マルセイユはル・コルビュジエにとって「ホメロス的な景観、地中海を通じた人的・物的交通の到着点、文化と技術交流の交差路」であった 敷地は二転三転したのち、ミシュレ通りに面した約3.7haの四角い敷地に決定した。ミシュレ通り側(東側)と海側(西側)が主要なファサードとなっており、各住戸のロジア側壁の色彩が快活な印象を与え、打ち放しコンクリートの外観に躍動感を与えている 南側にもロジアや窓があるが、北側は窓のないコンクリートの壁である。
緑地の真ん中に太陽を浴びてそびえる《ユニテ》は、「鉛直方向の庭園都市」や「豪華客船」のコンセプトを実現し、彼が考案してきたさまざまなアイデアの統合である。
長さ135.5m、幅24.4m、高さ56mの巨大な箱は、主構造、基礎、支柱、人工床盤はすべて現場打ちの鉄筋コンクリート、ファサードやロジアのパネル類はプレハブで作られており、基準となっているのは、人体寸法を元にした尺度「モデュロール」であった。
地上を解放し、設備類を収めたピロティの層(1層)、商店(食料品店、レストラン、郵便局など)が入る中間層(8層)、幼稚園やジム、プール、屋上庭園、屋上をぐるりと走れるコース、演劇や集会をするための舞台がある屋上(17層)の間に、23タイプ337戸の住戸が収められた。生活に必要な機能を備えている適正な規模の住まいの単位であることから、「アパート」ではなく、「ユニテ・ダビタシオン(Unité d’habitation)」と名付けられ、その後の集合住宅の原点となった。
なお、ピロティの上、本棟の床下部分の層は空洞となっており、設備関連一式がその部分に収められている そのため、太いピロティの脚はユニテを支えているだけでなく、内部はパイプスペースとなっており、電気をはじめ、さまざまな配管が入っており、メンテナンス時にはこの中に入って作業する。
インテリアはシャルロット・ペリアン、ジャン・プルーヴェとの協働である。
代表的なメゾネットタイプ・・・・薄暗い中廊下に面した玄関から入ると、太陽の陽射しが一気に差し込んでくる。キッチンの先に吹き抜けのリビングがあり、住戸内階段を上がると、上階には、吹き抜けに面した主寝室、そしてバスルーム、子供部屋が配されている 東西両方に開いているため、それぞれの方角から午前中と午後の眩しい地中海の太陽を享受できる 各住戸の全面ガラスはオーク材の枠がついた開き戸で、ロジアは部屋の延長部分として利用される。
フランス
「建築の魂は、ヴォリューム、リズム、光と影に在ります。昨今の技術革新は、私を建築全般についての深い考察へと導きました。そして今、精神性を宿す建築に大きく惹かれています」とル・コルビュジエは1945年に語っている。彼はカトリック信者ではなかったものの、このときすでに教会建築を引き受ける下地がすでにできていたといえよう。
ロンシャンは古くから巡礼地として知られ、大巡礼の際には数千人が丘を登って、この地を訪れる。それが1944年の空爆で破壊され、村では再建を望む声が上がっていた。この再建のために依頼されたル・コルビュジエは、「偉大な建築家が必要であり、あなたは調和、人間の精神、幸福を常に考えている」とのクチュリエ神父からの後押しもあり、この教会建築に取り組むことを決意した。
すべてが曲面からできている、カニの甲羅のような、あるいは、帽子をかぶったような不思議な形をしたこの教会は、その小さい白い姿を丘の頂きに現し、人びとはそれを目指して歩いていく。この礼拝堂を印象づける、南東方向に向かって突き出して尖った屋根の形態は、ル・コルビュジエの後期絵画によく登場する、「角」や「翼」のモチーフを連想させる。そして、大きな塔と屋根の形を側面から見ると、その輪郭は、聖母マリアに祈りを捧げるこの礼拝堂にふさわしく、彼が描いていた「子を抱く母親(=聖母子像)」のスケッチを思い出させる。彼は「沈黙、内面的な祈りの場」をつくったと語っているが、光と色彩に満ちた空間には、「えもいわれぬ」美しさに満ちている。
鉄筋コンクリート造ではあるが、壁には破壊された折に残された旧礼拝堂の煉瓦や石材が用いられている。
最初に目に入る南面は大きく湾曲し、壁には多くの穴が開けられ、この開口から色ガラスを通した光がランダムに拡散する。また、3つの塔内部の小祭壇には、トップライトからの官能的なまでの光が降り注いでくる。光と影が荘厳で神聖な空間を作り出している。
祭壇上部に安置されている戦災をまぬがれた聖母子像は、年に一度の大祭の際にはぐるりと回転して、東側の屋外祭壇を方を向く仕掛けとなっている。
屋内には祭壇、小祭壇、告解室があり、床の石の割り付けはモデュロールによっている 椅子はル・コルビュジエと彫刻を共同制作しているジョセフ・サヴィナによるもので、祭壇のデザインはル・コルビュジエ本人による。
おおきく膨らみ、垂れ下がった重そうな屋根は、じつは飛行機の翼と同様、中が空洞で、軽い作りとなっている。
フランス
コートダジュールきってのリゾート地ニースからイタリア国境に向かって少し行った小さな岬カップ・マルタンの付け根の集落がル・コルビュジエのお気に入りであった。ここにル・コルビュジエが妻イヴォンヌへのプレゼントとして作ったのが《休暇小屋》である。
人体寸法と黄金比を元にしたル・コルビュジエ・オリジナルの尺度「モデュロール」を用いた、こじんまりとした10畳ほどの小屋。高さの違う什器が効果的にらせん状になるように配置されている。内装はベニヤ、外装は丸太 室内はカラフルに彩色されている。
70×70㎝角の窓が2つ、70×30㎝の窓が一つ、換気用の縦長の窓が2つあるだけで、開放的というよりは隠れ家のような空間である。
K・フランプトンは窓の扱いに注目している。北側はベッドの高さのところに細長い片開き。東側は洗面の横に両開き。南側は内側の鏡が景色を内に取り込み、座った位置から仰ぎ見る視覚だ。切り取る風景画が方角と目線の高さを違えて見せる演出をしている。
隣接する居酒屋「ひとで」とは、屋内の扉で両者はつながっているのだが、これは《休暇小屋》には台所が無く、食事は「ひとで」で摂っていたためである。
小屋の下には、ル・コルビュジエが大変気に入っていたアイリーン・グレイ設計による海辺の家《E1027》があり、彼は勝手にここに壁画を描き、グレイから非難されていた。
1957年にイヴォンヌが亡くなってからは、一人で訪れていたが、1965年8月27日、ル・コルビュジエはここの下の海岸で海水浴中に心臓麻痺をおこして亡くなった。
アルゼンチン
4層からなる住宅および診療所は、医師のペドロ・クルチェットとその家族のために建てられた。医師クルチェット博士が、診療所兼住宅の設計を依頼したが、ル・コルビュジエとの直接のやり取りはパリにいた博士の姉が行い、地元の建築家アマンシオ・ウィリアムスが現場を担当した。結局、ル・コルビュジエは一度も現地を訪れなかった。
緑に覆われた公園と19世紀に計画されたラ・プラタの大通りに面し、この通りによって正面が60度に切り取られ、三方を新古典主義様式の既存の建物で囲われた敷地に建っている。
サヴォア邸の20年後に計画された《クルチェット邸》は「新しい建築の5つの要点」および、スロープといったル・コルビュジエ特有の建築的要素からなっている。
1階がエントランス、車庫、中庭 / スロープ折り返しの踊り場(中2階)が居住部のエントランス / スロープを上がった2階が診療所 / 3階と4階が住まいという構成である。
ピロティは通りに面した診療所を持上げ、車庫の空間を作っている。正面扉を入ると、中庭に育つ1本の樹木とそれに対応するかのような等間隔ではなく林立する柱の空間と彫刻が置かれた中庭が現れる。そこは外部の明るさとは対照的な光と影の演出であり、その空間をスロープが横切っている。スロープを登ると、光と影、内部と外部が生み出す対比的な空間に、ル・コルビュジエの建築的プロムナードの詩的な力を感じることができる。スロープは診療所と住宅双方への巧みな個別のアクセスとなっていて、公私の空間をうまく分離させ、上階における住宅のプライバシーは守られている。住宅部分には2.26mとその2倍の天井高をもつリビングの空間、そして緑あふれる景色を切り取るキャノピーへと空間が開ける。食堂、寝室、下階の診療所はすべて、太陽の向きと外の景色を考慮しながら方向が決定され、最大限にランドスケープを享受できる建物となっている。
太陽の動きを考慮し、北向きの強い陽射し(南半球のため、北向きは日当たりが良い)を調整するために、建物前面には鉄筋コンクリート製の日除け(ブリーズソレイユ)が取り付けられ、正面部分の奥行を巧みに操作し、屋上庭園には半分に背の高いパラソル屋根がついている。
現在は地元の建築家協会が管理している 映画『ル・コルビュジエの家』(2012年日本公開)は、この住宅が舞台となって物語が展開している
インド
第二次世界大戦後のパキスタン分離独立によって、インド北西部のパンジャブ州には、新しい州都を建設することとなった。
インド政府は別の建築家チームに依頼したが、主任建築家が事故死したことから、新しい建築家を探さなくてはならなくなり、そこで白羽の矢が当たったのがル・コルビュジエであった。
1950年に要請を受けたル・コルビュジエは、翌年から1964年の間、何度もインドを訪れて、マクスウェル・フライ、ジェーン・ドリュー、ピエール・ジャンヌレとともに、全体計画(公共交通、ゾーニング、各セクターの建築など)からキャピトルの各建築の設計に力を注いだ。
植栽計画に力を注いだチャンディガールは、現在では「ガーデンシティ」ともよばれ、インド屈指の緑にあふれる都市に発展した。
フランス
《ロンシャンの礼拝堂》にも関わったクチュリエ神父からの依頼によって、ル・コルビュジエは再びカトリックの施設に取り組むこととなった。
修道院という施設は、修道僧が集団生活をする住居という生活の場と、学び、静かに祈り思索する宗教的な場という、二つの役割をもつ。13世紀に確立されたドミニコ会の決まりに従ったプログラムが求められ、100の僧房と図書室、研究室、会議室、食堂、教会などからなり、北側に礼拝堂が位置し、その南側にそれ以外の施設が、中庭を囲んで「コ」の字型に配され、全ては回廊でつながっている。《ラ・トゥーレット》は《ロンシャン(礼拝堂)》と《ユニテ・ダビタシオン(集合住宅)》での経験を生かし、それらを統括して作り上げた作品である。
ル・コルビュジエは、クチュリエ神父に勧められて見に行った《ル・トロネの修道院(南フランス)》だけでなく、《エマの修道院(イタリア)》、アトス山(ギリシャ)の修道院、ガルダイア(アルジェリア)のモスクなど、かつて訪れたことがあった宗教建築を参照にしたと思われる。
ピロティで持ち上げられた5階建てだが、敷地が急な斜面のため、もっとも高い東側にエントランスを置き、ここが3階にあたる。このフロアをはさんで上下に展開する構成となっている。ピロティは全体のボリュームに対して、個々の脚は細く、数が多く、斜めのアーチ状の形をしているものもあり、中庭に入ると、樹木に囲まれたように感じられ、森を見上げるところに修道院が建っているような印象を与える。礼拝堂棟のみピロティをもたず、コンクリートのマッシブな塊が、緑の斜面にどっしりと腰を据えていて、ピロティ部分との違いを際立たせている。
《ラ・トゥーレットの修道院》では随所に対比の面白さを見ることができる。
コンクリートは表面には石をはめ込んで、ざらざらな仕上げになっていて、ガラス面との差が際立っている。さらに、ところどころアクセントで用いられた原色が目を引きつける。
ここではさまざまな形の窓があるが、市松模様に開けられた正方形の窓、水平方向に伸びる廊下部分の細長いスリット、幅の違う縦の細い桟が入った幾何学的な窓の割り付け(波動的なガラス面)などが、垂直・水平の対比を強調している。これらはモデュロールの寸法を使った窓割りが生んだリズムであり、同様に礼拝堂内部では床、壁、天井において、コンクリートの目地割りが異なるリズムを生みだしている。
礼拝堂は大きな四角いコンクリートの箱だが、祭壇には朝、昼、夕方と異なる方角からの光が差しこみ、さらに「光の大砲」「光の機関銃」と呼ぶトップライトからの光が壁面に塗られた色彩と相まって静謐な祈りの空間を生み出している。
一方、修道士たちの部屋は実に簡素である。必要最低限のものしか持たず、祈りと学問に生活を捧げる、彼らの静かな暮らしのためにル・コルビュジエが用意したのは、モデュロールの寸法によってつくった質素ながら落ち着く空間であった。
日本
日本に残されたル・コルビュジエ唯一の作品である。
戦争中、フランスに残されていた松方幸次郎氏の「松方コレクション」が、フランスから日本に返還されるにあたり、条件として提示されたのが、コレクションを収蔵展示するための美術館の建設であった。
ルーヴル美術館のジョルジュ・サール館長の助言を得て、ル・コルビュジエが設計者に決まり、ル・コルビュジエが基本設計を行い、弟子である前川國男、坂倉準三、吉阪隆正らが実施設計、監理を担当した。ル・コルビュジエは敷地を見るために一度だけ来日を果たしている(1955年11月)。
ル・コルビュジエは美術館建築に強い思いを抱いており、1920年代からさまざまな美術館計画案を提示してきたが、実現したのはチャンディガールとアーメダバード、そして上野の3館だけであった。いずれも、建物の中心から巻貝の殻のようにらせん状に広がっていく回廊状の展示室を置き、収蔵品が増えれば外側に増築できる「無限成長美術館」を基本としている。
ル・コルビュジエは、松方コレクションのための美術館だけでなく、実験劇場や企画展示施設、図書館、講堂、観客休憩所などからなる「芸術文化センター」的なものを構想していたが、収蔵作品を展示するための美術館以外は実現にはいたらなかった。
およそ40m四方の美術館は、足元をピロティによって支えらえている。直径60センチの柱は力強く、型枠に使用したヒメコマツの木目が本物の樹木を思わせるように美しい。さらに小石をぎっしり詰め込んだ外壁はあたかも菓子の「雷おこし」のような表面であり、外壁のコンクリートパネル、柱には、コンクリートの表情の多様さを見ることができる。
半屋外空間のピロティから中に入り、中央の「19世紀ホール」が展示空間のスタートである。ここにはル・コルビュジエ本人による写真壁画を予定していたが、時間切れで実現できなかった。ここでは北側を向いた吹き抜けの高いトップライトからの柔らかな自然光のもとで彫刻などを鑑賞した後、ゆるやかにスロープを進み、ホールを見下ろしながら、低い天井を抜けて2階の展示室へと入っていく。
2階の展示室は、角を曲がるごとに狭い空間や高い空間が現れ、ところどころではホールを見下ろすバルコニーがあり、また、外を眺められるベンチのコーナーがあるなど、変化に富んだ空間である。寸法はモデュロールで決められ、低い部分は226cm、高い部分はほぼその2倍の高さである。
低い天井の上の、ガラスに囲まれた部屋状の部分は、トップライトからの自然光を効率よく展示室にもたらすための「照明ギャラリー」だが、自然光の紫外線は作品に悪影響を及ぼすことから、現在は人工照明を中に入れている。
フランス
フランス中部、大都市リヨン郊外に位置する、再開発が望まれていたフィルミニ市に、市長として就任したのが戦後の復興大臣でありル・コルビュジエと交友のあったクロディウス・プティ氏であった。当時開発をすすめようとしていたのが、旧市街と新市街を結ぶ、すり鉢状のエリア「フィルミニ・ヴェール地区」であり、プティ市長はル・コルビュジエにここにいくつかの建物をつくることを依頼し、《文化の家》《スタジアム》《サン・ピエール教会》《ユニテ・ダビタシオン》が実現した。そのなかで《文化の家》が世界文化遺産に登録された。
全長112mの細長い建物で、各7mのブロックが16スパン続く形状となっている。屋根は132本のケーブルで支えられ、その上に10センチ厚のコンクリートで覆いをし、屋根としているため、側面からは張り出した先端部分を頂点に描かれた放物線が作り出す、緩やかなU字型となっている。そして、隣接するスタジアム側にせり出し、下から見上げると上に反り返ったように見える。
鋭角ではないのでV字とはいえないが、側面のその凹んだ部分に水落としが付いているのは、《レ・マトゥの家》《ロンシャン礼拝堂》《高等裁判所》などと同様である。
サブグラウンドに面した側は、モデュロールによってリズミカルに窓割りされ、挿入された色によって軽快な印象を与える。一方、妻側はコンクリートで塞がれ、浮彫が施されている。
ル・コルビュジエは何度もフィルミニに訪れたが、最後の訪問は亡くなる3か月前(1965年5月)であり、その後は弟子のヴォジャンスキーが後を継いだ。
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