10万人収容のスタジアム
1936年 フランス パリ
「10万人収容の国立人民祝祭場」は1936年の終わりから1937年の春にかけて330枚の図面がされた。この計画案は1931-1932年に作成されたソヴィエト・パレスの系譜を継いでいる。それは群集の動線や、大観衆向けの音響・視覚設備の問題ばかりではなく、軽量の構造体という考えにもうかがえる。
この計画案には3つの側面を見出すことができる。1つはパリの都市整備と1937年の万博に関する考察。もう1つは1919年以来開発が続いていた運動施設に関する考察。そして3つめは、共産主義議会に支えられ、急進的な社会主義者の大臣らを擁する人民戦線政府の期待に対する回答、という側面である。つまり運動、文化、政治が交差するこの計画についてル・コルビュジエは、「人々が集い、満場一致で感動を共有する機会は今日多く必要とされている」と『全作品集』に記している。
敷地としては、1894年のヴァンセンヌの森の市立自転車競技場(1900年のオリンピックに使用された)、他2か所が検討された。
計画案の図面に添えられた文句は以下の通りである。ここには「多機能」と明記されている。
- - 100,000人収容の階段席。アクセス路を備える。
- - 演劇用の舞台
- - 外部あるいは階段席からの入場・行進用の設備
- - 発言者用演壇
- - 野外映画設備、スクリーンは油圧ポンプにより出し入れする
- - 運動のための大芝生面
- - オリンピックの大掲示板のための人工丘
- - 高さ100メートルの金属製柱塔、映画スクリーンの後ろにあり、ここからケーブルを張って天幕の支えとする
- - 柱塔の中には音響室、撮影室、ラジオ室