ル・コルビュジエの生涯
Le Corbusier(Charles-Edouard Jeanneret)1887~1965
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10月6日、ラ・ショー=ド=フォンのラ・セール通り38番地にて、ル・コルビュジエ(=シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ)誕生
父ジョルジュ・エドゥアール・ジャンヌレは時計のエナメル盤職人、母マリー・シャルロット・アメリー・ジャンヌレ・ペレは音楽教師 -
ラ・ショー=ド=フォンの小学校に入学
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地元の美術学校に入学
時計装飾を学ぶ -
シャルル・レプラトニエ先生による美術学校高等科に進学、先生により建築への興味がひらかれる
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建築家ルネ・シャパラの協力を得て、美術学校の運営委員であるルイ・ファレ氏のための家をデザインする -処女作《ファレ邸(~07)》
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懐中時計(外側)のデザインと彫刻を行い、ミラノの博覧会で賞をもらう
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9月、初の外国旅行はイタリアへ
2か月半かけてミラノ、フィレンツェ、ガルッツォのエマの修道院、シエナ、ボローニャ、パドゥバ、ヴェニスなどをまわる
11月、ブダペスト経由でウィーンへ
ウィーンには4か月滞在
ウィーンで《ストッツァー邸》《ジャクメ邸》の計画を練る -
ウィーンでは、ヨゼフ・ホフマン、コロマン・モーザー、グスタフ・クリムトに会う
3月、ニュルンベルグ、ミュンヘン、ストラスブール、ナンシーを通ってパリへ
リヨンではトニー・ガルニエに会う
パリではフランツ・ジュールダン、シャルル・プルメ、アンリ・ソヴァージュ、ウジェーヌ・グラッセを訪問する
ペレ兄弟のアトリエで製図工として働く -
秋にラ・ショー=ド=フォンに帰る
《ストッツァー邸》《ジャクメ邸》が完成 -
「連合アトリエ」を設立
グリンデルヴァルドでのナショナル・スキー大会に参加
4月、故郷の美術学校からの任務でドイツの装飾芸術の調査に行く
「ドイツの装飾芸術運動について」をまとめて1912年に発表
冬にはベルリンのペーター・ベーレンスのアトリエで働き、ヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエに出会う -
ラ・ショー=ド=フォンで両親のための《ジャンヌレ・ペレ邸(モンターニュ通り)》
ル・ロクル近郊で《ファヴル・ジャコ邸》を手掛ける -
パリのサロン・ドートンヌで10点の水彩画からなる初の展覧会「石の言葉」を開催
デッサンの教師のための資格を取得 -
ラ・ショー=ド=フォンの美術学校の新設科を閉める
ケルンへの旅行(工作連盟(Werkbund)の展覧会)
「ドミノ」住宅の研究を開始 -
パリの国立図書館の版画部門で勉強
「街の建設」の論文作成 -
ラ・ショー=ド=フォンで《シュウォブ邸(トルコ風ヴィラ)》と《シネマ・スカラ》の建設
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ラ・ショー=ド=フォンから決定的に離れ、パリに定住する
最初の建築アトリエをBelzunce通り20番地(10区)に、つづいてアストル通り29番地(8区)に構える
1933年までジャコブ通り20番地(6区)に居住
鉄筋コンクリート会社SABA(la Societe d'Applicaion du beton arme SABA)の顧問に(1917年4月~1919年1月) -
オーギュスト・ペレの仲介で画家のアメデ・オザンファンや芸術家たち(ジョルジュ・ブラック、ホアン・グリス、ピカソ、ジャック・リプシッツなど)と知り合う
パリで最初の油彩作品「暖炉」を制作
オザンファンとともにパリのトマ画廊で「ピュリスト展」を開催
『キュビスム以降』(オザンファンと共著)
網膜はく離で左目の視力を失う -
オザンファン、ポール・デルメとともに「レスプリ・ヌーヴォー」を設立
《モノル住宅案》 -
フェルナン・レジェと知り合う
総合芸術雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」を発行(~25)し、建築について執筆する際のペンネームとして「ル・コルビュジエ」を使用
これはアルビジョワに先祖をもつ母方の祖父の「Lecorbesier」から採られたもの
《シトロアン住宅案》 -
カーンワイラー(Kahnweiler and Uhde)のオークションで、オザンファンとともにラウル・ラ・ロッシュのためにキュビスムの絵画作品を購入(1921~23)
ドゥルエ画廊(Galerie Druet)でジャンヌレの油彩展
オザンファンとともにローマ旅行 -
再従弟のピエール・ジャンヌレと協働開始
ソルボンヌで講演
モデルのイヴォンヌ・ガリと知り合う
彼女とは1930年に結婚する
サロン・ドートンヌで「300万人の現代都市計画」を提示
《ベスニュ邸(ヴォークルソン)》と《オザンファンのアトリエ住宅(パリ)》(~24)
《シトロアン住宅案》《イムーブル・ヴィラ案》などに取り組む -
『建築をめざして』出版(1927年には英語版も出版)
レオンス・ロザンベールの「レフォール・モデルヌ」画廊でジャンヌレ&オザンファンの展覧会を開催
《ラ・ロッシュ+ジャンヌレ邸(オートゥイユ》(~24)、両親のための《レマン湖の小さな家(コルソー、スイス)》の建設 -
事務所をセーヴル街35番地(パリ6区)に構える
ジュネーヴ、ローザンヌ、プラハで会議
クリシュナムルティと知り合う
『ユルバニスム』の出版
《労働者の住宅(レージュ、ジロンド県)》、《リプシッツ&ミスチャニノフ邸(ブローニュ・シュル・セーヌ)》を建設 -
『今日の装飾芸術』『近代建築名鑑』『近代絵画(オザンファンと共著)』を出版
《エスプリ・ヌーヴォー館(アールデコ博)》、《シテ・フリュジェ(ペサック)》の建設
「ヴォワザン計画」、《メイヤー邸》の計画
ガートルード・スタインによってアナトール・ド・モンジー大臣と知り合う -
父ジョルジュ・エドゥアール・ジャンヌレ逝去(4月11日)
『機械時代の建築』出版
《クック邸(ブローニュ・シュル・セーヌ)、《ギエット邸(アントワープ)》、《テルニジアン邸(ブローニュ・シュル・セーヌ)》、《人民の家(救世軍、パリ)》の建設
「新しい建築のための5つの要点」発表 -
マドリッド、バルセロナ(アントニ・ガウディの建築を訪問)、ブリュッセル、フランクフルトで会議
ジュネーヴの《国際連盟》のためのコンペで1位になるも、外される
《スタイン+ド・モンジー邸(ガルシュ)》、《プラネクス邸(パリ)》、《ワイセンホーフ・ジードルングの住宅(シュトゥットガルト)》を建設 -
ラ・サラにおいて「CIAM(近代建築国際会議)」を設立
『住宅ー宮殿』を刊行(《国際連盟》コンペの顛末をまとめたもの)
プラハ、モスクワで会議
アルカション湾のピケでバカンスを過ごす
《ベゾー邸(カルタゴ)》、《チャーチ邸(ヴィル・ダヴレイ)》、《ネスレ・パビリオン(パリ)》、《セントロソユース(モスクワ)》を手掛ける -
南アメリカへの旅
ブエノスアイレス、モンテヴィデオ、リオデジャネイロ、サンパウロで10回におよぶ一連の会議に出席
ボルドーからリオに向かう船上にてジョセフィン・ベーカーに出会う
サロン・ドートンヌにて、シャルロット・ペリアンとピエール・ジャンヌレとの協働で家具を制作して展示
フランクフルトにてCIAM第2回大会を開催
《サヴォア邸(ポワシー)》の建設
《ムンダネウム》の計画
南アメリカのいくつかの都市のための計画 -
ピエールとともにスペイン横断旅行、モロッコとアルジェリアにも
ムザブ(ガルダイア)を訪問
《ナンジェセール・エ・コリ24番地(ブローニュ・シュル・セーヌ)のアパート》を建設し、ここに自分のためのペントハウスとアトリエを設ける
《ソビエトパレス案》(~33)
ザルブラ社の壁紙デザイン -
1937年の「パリ万博(芸術と技術の国際博覧会)」のための計画コンペに参加
ストックホルム、オスロ、ゲーテボルグ、アントワープとアルジェで講演
バルセロナでCIRPAC(Comité international pour la résolution des problèmes de l’architecture contemporaine) に参加 -
チューリッヒ大学から名誉博士号を受ける
パトリス号とアテネでのCIAM第4回大会に参加
「アテネ憲章」起草
雑誌『プレリュード』のメンバーになる
アルジェで負傷する -
《ナンジェセール・エ・コリ24番地のアパート》の7階に住まいとスタジオを構えて引っ越し
ここが彼の終生の住まいとなる
ローマ、ミラノ、アルジェ、バルセロナで講演
頻繁にアルジェを訪問
ジアコモ・マッテ・トルッコによるトゥーリンの《リンゴット・フィアット工場》を訪問
ノルベール・ベザールとともに「輝ける農場」をデザイン -
2回目のブラジル旅行はグラフ・ツェッペリン号に乗って
リオの《国立教育保険省ビル》に対して、ルチオ・コスタ、オスカー・ニーマイヤー、アルフォンソ・レイディらに助言
リオ・デ・ジャネイロで講演
《10万人のスタジアム(パリ)》計画
ヴェズレイのジャン・バドヴィッチの家に壁画を描く
マリ・クットーリのための最初のタピスリーを制作 -
フランス政府から「レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章」を受章する
RIBAの会員になる
パリ万博で《新時代館》を建て、そこでCIAM第5回大会を開催
ブリュッセルとリヨンで講演
『伽藍が白かったとき』を出版
「パリ計画」と「カルテジアン・スカイスクレイバー(デカルト式超高層)」の研究 -
チューリッヒ美術館とルイ・カレのギャラリー(パリ)で絵画展開催
海水浴中に重大な事故(ボートのスクリューが接触)に遭い、サントロぺの病院で手術を受ける
療養のため、ロクブリュンヌ・カップ・マルタンのアイリーン・グレイの家《E.1027》に滞在し、そこに8点の壁画を描く
『大砲、砲弾?もう結構!住宅をお願いします』、『不衛生街区No.6』を出版 -
C.E.P.U.(Committee for preparatory urban studies、都市研究準備委員会)の立ち上げでジャン・ジロドゥと知り合う
ストックホルムの王立芸術アカデミーで外国人ディプロマを受ける
雑誌『ル・ポワン』誌上で「新時代の抒情と都市計画」を発表 -
6月11日にセーヴル街35番地のオフィスを閉め、イヴォンヌとピエールとともにピレネーのオゾンへ疎開する
《ミュロンダン住宅(案)》 -
ピエールはレジスタンスに参加するために離れ、ル・コルビュジエはイヴォンヌを疎開先に置いたまま、ヴィシーに滞在しペタン元帥に接触を図る(このことで、戦後非難される)
『パリの運命』、『4つの交通路について』を出版 -
ASCORAL(Constructors' meeting for architecturl renuwal)設立
アルジェへの公式な出張
セーヴル街35番地の事務所を再開
『ミュロンダン構法』、『人間の家(フランソワ・ド・ピエールフウと共著)』を出版 -
ジョセフ・サヴィナとの協働を開始
『アテネ憲章』、『建築科学校の学生たちとの対話』を出版
「モデュロール」研究に着手 -
ユニテ・ダビタシオンの研究
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建設者のアトリエ(ATBAT=Builders' Studio)設立
ウジェーヌ・クロディウス・プティと知り合う
リバティ船(=戦時標準船、規格型輸送船)「Vermon S. Hood」号の船上で「モデュロール」のプロポーションのシステムについて研究
『三つの人間機構』出版
エドゥアール・トルーアンと《サント・ボームの教会計画》(~48) -
アメリカのプリンストンへ旅行
アルベール・アインシュタインと会う
『都市計画を考える方法』、『都市計画』を出版
《デュヴァルの織物工場(サン・ディエ)》(~51) -
ニューヨークの国連本部ビルのための委員会のコンサルタントの一員になる
ブリッジウォーター(イギリス)でCIAM第6回大会
『国連本部』出版
《マルセイユのユニテ・ダビタシオン》の建設開始 -
アメリカでいくつかの展覧会を開催・・・ポール・ロザンベール画廊(ニューヨーク)、ICA(ボストン、デトロイト、サンフランシスコ)、コロラドスプリングス、クリーヴランドなど
タピスリーのデザインに関してピエール・ボードゥアンとの協働を開始
大学都市の《スイス学生会館》に壁画を制作
事務所員たちの要望があり、セーヴル街35番地のスタジオにも壁画を描く -
ボゴタの都市計画研究のためにコロンビア当局と契約を交わす
ベルガモでCIAM第7回大会開催
《クルチェット邸(ラ・プラタ)》(~51)を建設
《マルセイユのユニテ・ダビタシオン》の現場をジャン・ピエール・オモン(俳優)と訪問、パブロ・ピカソとも訪れる -
《ロンシャンの礼拝堂》の検討を開始する
新州都チャンディガールの計画のために、ピエール・ジャンヌレ、マクスウェル・フライ、ジェーン・ドリューとともに、パンジャブ州政府(インド)のコンサルタントになる
『モデュロール』、『アルジェの詩』、『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』を出版
ル・コルビュジエ自身の休暇のため滞在先として、ロクブリュンヌ・カップ・マルタンに《休暇小屋》をつくる
コラージュ制作に熱中 -
「レジオン・ドヌール勲章コマンドゥール章」を受章する
3月、三度目のインドへの旅
10月14日、《マルセイユのユニテ・ダビタシオン》の竣工式
《ジャウル邸(ヌイイー・シュル・セーヌ)》、《ユニテ・ダビタシオン(ルゼ・レ・ナント)》の建設 -
《ユネスコ本部(パリ)》のプロジェクトのための5人委員会のメンバーに選出される(ほかはグロピウス、ブロイアー、マルケリウス、ロジャース)
Luynesのエナメル作家、ジャン・マルタンを訪問する
CIAM第9回大会がエクサン・プロヴァンスで開催され、この会議をもって脱退する
パリ近代美術館で美術作品の展覧会を開催
《サント・マリー・ド・ラ・トゥーレットのドミニコ会修道院(エヴー)》、《ブラジル学生会館(パリ、ルチオ・コスタと協働》の建設 -
エコール・デ・ボザールの教職のポストを断る
『パリ計画』を出版
リヨンで展覧会を開催 -
10月5日、妻イヴォンヌ死去
W.ボジガーのキュレイションによる大型回顧展『10都市』展を開催:チューリッヒ、ベルリン、ミュンヘン、フランクフルト、ウィーン、ハーグ、パリなど
ラ・ショー=ド=フォンの美術館で展覧会開催
ラ・ショー=ド=フォンの名誉市民になる
コペンハーゲンの王立美術アカデミーの会員になる
「芸術と文学のコマンドゥール章」を授与される
『建物の詩』、『ロンシャン』を出版
《ユニテ・ダビタシオン(ベルリン)》、《ユニテ・ダビタシオン(ブリエ・アン・フォレ)》 -
アメリカへの旅
9月12日、スウェーデンで「言語と教育(Litteris et Artibus)」のディプロマを得る
ブリュッセル万博で《フィリップス館》を手掛ける
内部で上映した『電子の詩』も制作(音楽はエドガー・ヴァレーズが作曲)
《合同庁舎(チャンディガール)》完成 -
ケンブリッジ大学から名誉博士号
《サヴォア邸》を、保護されるべき遺産に登録するための国際的なキャンペーンを展開
インドへの旅
《文化の家(フィルミニ)》の建設
ウジェーヌ・クロディウス・プティからフィルミニ・ヴェールの《ユニテ・ダビタシオン》を委嘱される
ザルブラ社のための「壁紙」を出版
《国立西洋美術館(東京)》開館する -
2月15日、コルソーで母マリー・シャルロット・アメリー・ジャンヌレ・ペレ死去
2月4日、ソルボンヌで講演
10月19日、《サント・マリー・ド・ラ・トゥーレットのドミニコ会修道院》の竣工
『忍耐強い探求のアトリエ』出版
《ケム・ニファーのリーヌ川(Rhine River)の排水施設》 -
《在ブラジル仏大使館(ブラジリア)》プロジェクトのためにブラジルへ
パリ近代美術館で大回顧展
《州議会議事堂(チャンディガール)》の完成
《ユニテ・ダビタシオン(フィルミニ)》の建設 -
フィレンツェ市からゴールドメダル
「レジオン・ドヌール勲章グラン・トフィシエ章」を受章
ジュネーヴ大学から名誉博士号
《カーペンター視覚芸術センター》の完成
ストロッツィ宮(フィレンツェ)で展覧会開催
ハイジ・ウェーバーのための《人間の家(=ル・コルビュジエ・センター、チューリッヒ)》(~67)をデザイン -
6月、セーヴル街35番地のスタジオで、「レジオン・ドヌール勲章のグラン・クロワ(大十字勲章)」をアンドレ・マルロー大臣から受章
《ヴェニスの病院》計画のデザイン
チューリッヒとラ・ショー=ド=フォンで展覧会開催 -
チャンディガールの《開いた手》のモニュメントのスタディを再開
ボストンの建築協会から受賞
『ロンシャンのためのテキストとデッサン』を出版
《フィルミニのスタジアム》の建設
8月27日、カップ・マルタンで海水浴中に没
9月1日、ルーヴルのクール・カレにて公式の葬儀が行われ、カップ・マルタンの墓地に埋葬 -
フィルミニのサン・ピエール教会竣工
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生誕120周年で世界各地で展覧会が開催される
国立西洋美術館が国の重要文化財指定を受ける -
ル・コルビュジエの建築7ヶ国17資産が、ユネスコの世界文化遺産に登録される
参照:ル・コルビュジエ財団(Fondation Le Corbusier)ホームページ