ル・コルビュジエのタピスリー

林美佐(ギャルリー・タイセイ学芸員)

 1936年、ル・コルビュジエはマリ・クットーリからタピスリーのための下絵を描いてほしいと頼まれた。これがル・コルビュジエとタピスリーとの関わりの始まりである。

古来、城や貴族の館や教会の壁を彩ってきた大きなタピスリーは、美しさだけでなく、織物のもつ保温性が冬の厳しい寒さを和らげる効果を持っていたことから重宝されていたが、時代の変化とともにゴブラン織りなどの高級織物のタピスリーは需要が激減し、風前の灯となっていった。19世紀に起こった社会の大きな変革で、大衆の進出とともにタピスリーを飾るような館が減ってきたことが大きな要因だが、ペストが大流行した際、タピスリーがネズミの格好の住まいとなることが分かり、壁から外されたタピスリーは焼却処分とされ、再びタピスリーを掛けることが憚られたことも要因の一つである。そして、代わりに壁紙が隆盛となった。

 衰退していたフランスのタピスリーを再興させようと活動を展開したのが、マリ・クットーリ(1879~1973)であった。マリはアルジェリア生まれの女性で、地元で伝統的な絨毯のワークショップを行うなどの活動をしていた。その後、アルジェリア総督を務める外交官ポール・クットーリと結婚。パリに工房兼ギャラリーを開いて、芸術家やデザイナーたちと交流し、その後、フランスのタピスリー復興のために活動を開始した。美術作品のコレクターとしても知られている。

マリ・クットーリ(Marie Cuttoli)
マリ・クットーリ(Marie Cuttoli)

 クットーリ夫人は芸術関係の人脈を生かして、ピカソやブラック、レジェらに、タピスリー制作のために既に描かれた油彩作品の絵柄を転用することの許可を得て制作に取り組み、その後はタピスリー用にオリジナルの下絵の制作を依頼し、それらの絵をもとにタピスリーを制作した。こうした作品は評判を呼び、注目が集まった。

 ル・コルビュジエはそれまでにタピスリーを制作する機会はなかったが、レジェをはじめとする知り合いの芸術家たちがクットーリ夫人のタピスリー制作に関わっていることに興味を抱き、クットーリ夫人からの依頼を非常に嬉しく思ったのは間違いない。後年、テリアード(Editions Tériade, Paris)が高名な画家たちによる一連の版画集を出版した際に、自分もそのラインナップに加えてもらえたことをル・コルビュジエは大変喜んでいるが、このときと同様の嬉しさだったろう。なぜなら、ル・コルビュジエは周りが思う以上に画家としての活動に力を入れていたし、画家として認められたいという欲求を持っていたからである。

こうしてル・コルビュジエは、依頼者である彼女の名前をそのままタイトルとした「マリ・クットーリ」と題したタピスリー用の作品を描いた。この作品は1936年に描かれ、タピスリーは1937年に完成している。小舟と艫綱のそばで横になってくつろぐ女性の姿を描いたが、このモチーフは1930年代のル・コルビュジエが好んで描いたものである。

ル・コルビュジエ「マリ・クットーリ」(タピスリー)
ル・コルビュジエ「マリ・クットーリ」(タピスリー)

彼女に協力してタピスリーを制作したのはこの作品のみだったが、クットーリ夫人との交流はその後も続いている。後年、ル・コルビュジエはタピスリーを建築空間にとって重要な美術作品と位置づけ積極的に制作するようになるが、このときはまだタピスリーを建築に活かす方法に思い至っていなかったのだろう。

 ル・コルビュジエが「マリ・クットーリ」を制作した1930年代半ばには、貴族の館に出向かないと見ることができないような高尚な美術作品ではなく、どこででも誰しもが目にすることができる親しみやすい美術作品を普及させようという運動がフランスで広まっていた。ル・コルビュジエも参加した「壁画芸術協会」が設立され、1937年に開催された「パリ万博」では大きな壁画やフォトモンタージュといった、大きくて分かりやすい美術作品が数多く制作されていた。
「パリ万博」の際に、《スペイン館》のために制作されたピカソの「ゲルニカ」は高さ約3.5メートル、幅約7.8メートルという大型絵画であることが知られているが、《電気館》のために制作されたラウル・デュフィの「電気の精」はなんと高さ10メートル、幅60メートルにもおよぶ巨大作品である。ほかにもドローネー「リズム」やレジェ「力の伝達」など巨大な作品がパビリオンの壁面を彩るために制作された。ル・コルビュジエも自身が手掛けた《新時代館》において、壁面を大型のフォトコラージュや絵画パネルによって埋め尽くした。
城や教会などのために大型タピスリーや大型壁画が制作されなくなった20世紀においても、メキシコの壁画運動や1930年代半ば以降の欧米では大型作品が多く制作され、人目を引くことに成功した。

デュフィ「電気の精」
デュフィ「電気の精」

しかし、その後は第二次世界大戦に突入し、芸術作品の創作にとっては厳しい時代となったこともあり、新しい芸術表現として認知され始めたタピスリーも再び中断を余儀なくされたのである。

タピスリーの復活にはもう一人忘れてはいけない作家がいる。ジャン・リュルサである。日本ではあまり知られていないが、彼はまさにタピスリーの天才と言ってよい。クットーリ夫人は自ら制作することはない名プロデューサー兼パトロンだったが、リュルサは作家であり、自らの作品を通して、タピスリー芸術を世の中に認めさせた人物である。
ジャン・リュルサ(1892~1966)はフランスを代表するタピスリー作家で画家として知られ、弟のアンドレ・リュルサは建築家として活躍した。フランス北東部の出身で、ナンシーやパリで学び、画家として活動する一方、1917年に初めてタピスリーを制作してからは、およそ10年間で10作品を制作している。多くの芸術家と交流を深め、コスチュームや舞台装飾、インテリアデザインにも携わり、1933年にはタピスリー生産地として知られていたオービュッソンで、自身が開発した堅牢な織りの技法によるタピスリーを制作している。
彼はタピスリーを織物で作った絵画の模倣品ではなく、大きな壁のためにカスタムメイドされ、その空間に永続的に存在する建築のパートナーととらえ、その魅力を自分の作品を通して世界中に発信し続けたのである。彼の作品は教会などの壁を彩っているほか、各地の美術館に収蔵されている。
《ノートルダム・ド・トゥト・グラース教会(プラトー・ダッシーの教会)》の「ヨハネの黙示録」の一部を表現したタピスリー(1946)は圧巻だが、ここは、ル・コルビュジエに《ロンシャンの礼拝堂》を作らせたカトリックのクーチュリエ神父が、シャガールやマティス、ルオー、レジェら何人もの芸術家に教会を彩る作品を作らせたことで知られている。
リュルサの作品は主に黒や濃紺をバックに、太陽や星、月、花々がちりばめられ、さまざまな動物が描かれた作品が多く、それぞれの輪郭が妙にとげとげした表現になっているのが特徴的であり、一度見たら忘れられない作品である。

リュルサ「魚と月」
リュルサ「魚と月」
リュルサ《プラトー・ダッシーの教会》内のタピスリー
リュルサ《プラトー・ダッシーの教会》内のタピスリー

 1948年に、フランス中部オービュッソンの美術学校教師ピエール・ボードゥアンからの提案を受けるかたちで、ル・コルビュジエは再びタピスリーの制作に取り組むことになる。ボードゥアンはオービュッソンに赴任した際、地元の産業であるタピスリーを再興させることに情熱を燃やし、ル・コルビュジエに協働を持ち掛けたのである。

 ル・コルビュジエはこのときから亡くなる年までタピスリーを制作しており、タピスリーのレゾネには、《東急文化会館》用の緞帳(建物取り壊し後、保存)を含めて31作品がリストアップされているが、第2バージョンがあるものや、チャンディーガール高等裁判所のための複数枚のタピスリーもまとめて1作品としてカウントされているため、それらを別々に数えると40以上の絵柄の作品が制作されている。さらに1枚だけしか織られなかったものから、本人の没後も含めて1つの絵柄から9枚織られたものもあるため、枚数としては134枚のタピスリーが制作されている。(”Le Corbusier Oeuvre Tissé”より)
 これらのタピスリーは、ル・コルビュジエが下絵を描き、ボードゥアンの指導のもとに制作された。インドや日本で制作された作品以外のほとんどが、オービュッソンとその近郊にあるタバール(Ateliers Tabard)やピコー(Ateliers Picaud)、パントン(Ateliers Pinton)という工房で織られている。

 戦後になって、ル・コルビュジエがタピスリーを制作し自分の建築作品の中に掛けることになったきっかけはボードゥアンからの誘いだったが、継続して制作に取り組んだのにはいくつかの理由が挙げられよう。それは、タピスリーと壁画の類似性、そして、打ち放しコンクリート建築のもつ物理的な問題を解決するためであった。そのなかで彼なりの新しいコンセプトを生み出していった。

 ル・コルビュジエは1930年代後半から壁画を描いている。時期的にはちょうどタピスリーに関わったのと同じころであり、先述した「壁画芸術協会」の設立時期とも重なる。
初めての壁画は、建築雑誌編集者である友人のジャン・バドヴィッチがフランス中部のヴェズレーに所有する木造の田舎家の壁へ描いたものだった。バドヴィッチは何軒も田舎家を所有しており、そのうちの1棟の壁画を友人のレジェに依頼したのだが、これを知ったル・コルビュジエは、是非自分にも描かせてほしいとバドヴィッチに頼みこみ、別の1棟の壁に描く機会を得、これ以降、彼は壁画制作に熱中することとなる。

壁画を描くル・コルビュジエ
壁画を描くル・コルビュジエ

1920年代前半、彼は目もくらむような花柄やうっとうしい大きい絵柄の壁紙を嫌い、壁ごとに単色に塗り分け、すっきりと仕上げなければならないと強く主張した。こうすることで、壁紙の模様に埋もれていた壁に掛けた絵画が引き立ち、手前に置かれた家具の輪郭がはっきりと見えるようになるからである。そして、壁面ごとに単色で塗られた部屋は、色によって明るさや温かみが感じられたり、遠近感や明暗が強調されたり、外の緑との一体感が演出されたり、と個々の部屋に特徴を与えた。
1930年代のル・コルビュジエは、ソビエトの大型オフィスビル《セントロソユース》や、ジュネーヴの《クラルテ》、パリの《ナンジェセール・エ・コリのアパート》といった集合住宅など、鉄やガラスによる大きな作品を手掛ける一方、《マンドロー夫人邸》《六分儀の家》《ウィークエンドハウス》《ナンジェセール・エ・コリのアパート》では木材や石やレンガの表面を仕上げずにそのまま室内の壁に露出させて、素材の表情の面白さを見せつけている。さらに、1930年代後半以降、壁画を描くことで、壁全面を自身の絵画作品とすることに快感を覚えるようになる。もちろん、そのとき、美術作品と化した壁の前には何も置かないというのは言うまでもなく、部屋そのものがル・コルビュジエの巨大な美術作品を鑑賞するための空間となる。ル・コルビュジエは絵画を描くだけでなく、自作の絵画の一部分を引き延ばした、写真による壁画という、写真を用いた自作の再制作という手法も見せている。
ル・コルビュジエにしてみれば、壁画の取り組みからタピスリーの再挑戦というのは自然な流れであったろう。

デュヴァルの工場 写真壁画
デュヴァルの工場 写真壁画

 その後、戦争の時代を経て、第二次世界大戦後のル・コルビュジエの作品は「ブルータリスム」と呼ばれるような、粗い打ち放しコンクリートを前面に押し出した建築で知られるようになる。とくに1950年以降に関わったチャンディーガール(インド)の大型公共建築は、コンクリートの塊のような重厚で迫力ある造形となっている。
 ル・コルビュジエのタピスリーがもっとも数多く掛けられている場所は、そんなチャンディーガールの《高等裁判所》(1954)である。打ち放しコンクリートによる空間は非常に音が響きやすい。この難点を解消するために採用されたのがタピスリーだった。大法廷(1枚)から小法廷(8枚)まで合計9枚のタピスリーが各部屋の壁を覆っている。吸音性の高いタピスリーは打ち放しコンクリートの弱点を補うだけでなく、カラフルな色面をグレーの壁面に配されることで、部屋はいきいきとし、また部屋ごとに異なる雰囲気をもたらすことにも成功した。これらのタピスリーはル・コルビュジエによるデザインをもとに、アムリトサルにある東インドカーペットカンパニー(East India Carpet Company Ltd, Amritsar)という織物工場が完成させた。

 このような決められた壁に掛けるためのタピスリーに加えて、ル・コルビュジエは単独の作品としてのタピスリーも多数制作している。《高等裁判所》のタピスリーは法廷という場所のもつ性格ゆえに、いずれの部屋のタピスリーも、物語性があるものではなく、幾何学的な模様と色彩を楽しむような作品となっているのに対して、特定の場所に合わせて作られるものではない作品は、油彩作品と同様の独立した作品となっている。
 建物と永続的な関係をもつタピスリーとは異なり、置かれる場所との親和性を最初から求めることはできないが、ル・コルビュジエはこうした独立したタピスリーを積極的に作ることで、タピスリーに合わせて空間の方がル・コルビュジエ化することを狙ったといえよう。
 作品のモチーフは同時期に描かれている油彩作品やコラージュ作品と重複するが、織物という技法上の特性からか、よりグラフィックで単純明快な絵柄、色彩となっているのが特徴的である。ル・コルビュジエの1950年代以降の絵画作品では線と色面が必ずしも合致しないのが特徴的だが、タピスリーにおいてはその特徴が顕著で、色面はより大きく、色数は少なめで、大きな色紙を置いたかのようである。そこにル・コルビュジエ独特な肥痩のある線が、織物であるタピスリーにおいてもうまく表現されている。その結果、不思議な奥行き感が生まれている。
 これら多くのタピスリーのサイズは、モデュロールを基準としている。モデュロールとは人体寸法と黄金比を組み合わせたル・コルビュジエによるオリジナルの尺度であり、ボードゥアンとともにタピスリーを制作し始めた1948年は、モデュロール研究に取り組んでいた時期でもある。人間にとってふさわしい尺度であるモデュロールを基準につくられる住空間が人間にとって心地よいサイズであることから、モデュロールのサイズで制作したタピスリーを設置すれば、その空間は即座にル・コルビュジエの空間となり、居心地よく感じられるようになるというわけである。(実際のサイズには多少のばらつきがあるが、基本的に高さは2.26メートルと考えていた。)

ル・コルビュジエはタピスリーの購入者に対して設置方法について注文を付けていた。必ず床から立ち上がるように展示してください、と。ル・コルビュジエにとってタピスリーは織物で表現された壁画である。制作方法が絵具で描いたのではなく布で織ったというだけであり、モデュロールに従った高さ2.26メートルの壁に描かれた壁画が、取り外しできる織物という形に姿を変えただけのものなのである。だから、壁が床から立ち上がっているように、タピスリーも床から立ち上がっていなければいけないのである。つまり、ル・コルビュジエのタピスリーは、実際には天井から吊るされているとしても、イメージとしては床に立っているのである。彼のタピスリーは「移動可能な壁」―彼の言葉では放浪する壁(遊牧民の壁)(mural nomad)―と認識しないといけない。持ち運ばれて設置された彼のタピスリーがある場所はどこでも、ル・コルビュジエによって制作された壁のある空間へと変貌するのである。
ル・コルビュジエのタピスリーを所蔵していた建築家のヨルン・ウッツォンの書斎の写真が残っているが、ル・コルビュジエが望んだように、ほぼ床に着くように壁一面を覆ってタピスリーが掛けられている(ウッツォンはシドニー・オペラハウスの設計で知られる建築家。彼が所蔵していたタピスリーは、シドニー市が購入し公開している)。
 また、ル・コルビュジエは何度かタピスリーの展覧会を開催しており、そのときの会場写真を見ると、タピスリーの下辺をかなり床に近い高さで展示するようにル・コルビュジエ自らが位置を調整しているのが分かるし、チューリッヒにある《ル・コルビュジエ・センター》の展示風景を見ても、床に着くような位置に設置されている。

ウッツォンの書斎
ウッツォンの書斎
タピスリーの位置を自ら調整するル・コルビュジエ
タピスリーの位置を自ら調整するル・コルビュジエ
ル・コルビュジエ・センターでのタピスリーの展示
ル・コルビュジエ・センターでのタピスリーの展示

 壁であることを目指したため、ル・コルビュジエのタピスリーは大型のものが多いが、彼の最大のテキスタイル作品はかつて渋谷にあった《東急文化会館》(1956)のための緞帳である。弟子である坂倉準三から、設計した映画館「パンテオン」にかける緞帳を作ってほしいと依頼され、ル・コルビュジエがデザインして日本の川島織物が制作した。牡牛のモチーフを描いた一連の作品の一つであり、『牡牛XIV』というタイトルがつけられている。当然ながら床から天井まで舞台全体を覆い隠さないといけないため、高さ9.8メートル、幅23.6メートルという大型作品である。2003年に建物が取り壊されるときに緞帳も外され、現在オリジナルは保管され、代わりに作られた縮小版のレプリカが、同地に建てられた《渋谷ヒカリエ》に時折展示されている。ちなみに、舞台用に制作された大型作品として知られるピカソが制作したバレエ「パラード」(1917)のための舞台幕は、高さ10.5メートル、幅16.4メートルあるが、こちらはカンヴァスにテンペラで描かれたものであり、織物ではない。

ル・コルビュジエ「牡牛XIV」
ル・コルビュジエ「牡牛XIV」

ル・コルビュジエにとって室内の壁は、1920年代においては壁の前に置かれるものを引き立てるための何もない背景であり、色彩によって部屋の雰囲気を変化させるものだったが、やがて、壁そのものが鑑賞の対象となる芸術作品へと変貌していった。壁を芸術作品へ昇華させる方法が、絵具で描く壁画や写真壁画であり、織物によるタピスリーだった。
タピスリーは自身の建築に合わせて設置された総合芸術の一つの要素であるだけでなく、どんな場所であってもル・コルビュジエの空間に変えてしまう力をもった、持ち運べる壁だったのである。