絵画や言葉から読み解けるル・コルビュジエの人間性

林美佐(ギャルリー・タイセイ学芸員)

はじめに

ル・コルビュジエは「人を幸せにする建築」を目指し、絵画では女性ばかり描いてきたと語った。では、彼はどのような人たちとどのように接してきたのだろうか。それは、書籍や書簡に記した彼の言葉や、作品の中で表現した人物像を読み解くことで、明らかになってくるだろう。

そして、ル・コルビュジエの人との関わり方を探ることは、彼の人間性を考察することにもつながってくるだろう。

複雑な感情 家族に対して

ル・コルビュジエ(シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ)の人間性を形成したもっとも大きな要因は、やはり生まれ育った家庭環境だろう。彼はスイスの山間の小都市ラ・ショー・ド・フォンで、アルピニストで時計職人(エナメル文字盤制作の職人)の父ジョルジュ・エドゥアール・ジャンヌレとピアノ教師の母マリー・アメリー・ペレとの間に生まれた。兄アルベールは長じてリトミックの指導者、バイオリニストとなった。幼少期において、この兄は母のお気に入りであり、父からも大きな期待をかけられていた。対してシャルル・エドゥアールのことを、母は常々「出来が悪い」と言っていた。子供のころから褒められるのはいつも兄であり、弟は寂しく、いつかは認められたい、兄を上回りたいという気持ちを持ち続けていた。そのため、ル・コルビュジエは離れて暮らす両親には、自分が評価されていることや仕事がうまくいっていることだけを伝えていた(次はこういうプロジェクトを手掛ける予定、こんな有名人と会食をした・・・云々)。

父ジョルジュ・エドゥアールが1926年に亡くなってからは、音楽家としてなかなか成功できない兄に代わって自分が家族を支える家長だ、という意識を強くもつようになる。「成功した自分」が家族の面倒を見るのは、「やれやれ困った、自分が居ないと母も兄も立ち行かない、なんて自分は大変な役回りだ」という態度を見せつつも、上から目線の愛情を施してみせることで家族から感謝されることはル・コルビュジエの優越感につながり、喜びにつながったと思われる。現実には子供をもつことなく、父親にはなれなかったが、ジャンヌレ家において父的(家長的)立場の存在になったことが、ル・コルビュジエのプライドの一つでもあったのである。
その一方で、こんなに素晴らしい活動をしているのに、世界中から非難される可哀そうな自分をアピールし、母に優しい言葉をかけてくれるようにリクエストもしている。子供時代に冷たくされた経験を経てもなお、いつまでも子供のように甘えてみせる一面があったとは、じつに複雑な母への愛情である。母マリーは実に100歳という長寿を全うした。これは祝福すべきだが、彼女の長寿によって、息子ル・コルビュジエがいつまでも母離れできなかったのは皮肉なことでもあった。

妻に対して

1920年代前半に知り合い、30年に結婚したイヴォンヌ・ガリが、生涯にわたってル・コルビュジエのミューズであったことは間違いない。ル・コルビュジエが描く女性のほとんどすべてがイヴォンヌの姿をモデルにしていることなどから窺い知れるが、それはル・コルビュジエの頭の中で作り上げた「理想的女性像」だったと言っても良いだろう。

実際のところ、ル・コルビュジエはイヴォンヌを一人の人間として理解していただろうか。夫婦が仲睦まじくバカンスを過ごす姿に嘘偽りがあるわけでもないが、後年孤独感を募らせたイヴォンヌは次第にアルコールに依存し体調を崩していった。彼女の心のうちをどの程度理解できていたかは疑問である。
ル・コルビュジエは女性を卑下している部分があり、知的な女性よりもちょっと抜けている方が可愛いと発言をしている。だからイヴォンヌには仕事の話をせず夫の仕事の世界から遠ざける。近くのカフェで誰とでもお喋りができる賑やかな下町的生活を好んだイヴォンヌを、店も無い閑静な住宅街のアパートの高層階に閉じ込める。第二次世界大戦中にスペイン国境に近い田舎の村に疎開したときは彼女だけを一人残して自分はヴィシーに出ていく。その後も闘病するイヴォンヌを置き去りにしてル・コルビュジエは世界中を飛び回る。彼女はつねに一人で寂しい思いを抱えていたのである。

遡って、結婚当初から、ル・コルビュジエはイヴォンヌとではなく、兄アルベールとともに母マリーの家で繰り返しクリスマス休暇を過ごしている。母は南仏出身のイヴォンヌを嫌い、彼女との結婚を反対していたことから、結婚当初から嫁姑問題を抱えていたが、いつも母親の側に寄りそうル・コルビュジエの態度はイヴォンヌを失望させ続けただろう。そのうえ、ル・コルビュジエが母親の知り合いの女性と遠いアメリカで密会を楽しんでいたことをもし知っていたら、イヴォンヌの苦悩は如何ばかりであったろうか。

そんなル・コルビュジエではあったが、離れて暮らすイヴォンヌに、体調はどうか、薬を飲んだか、と気にし、医者を手配したから診てもらうようにと手紙をしたためている。彼の態度は保護者的であり、高圧的な父親が体調の悪い娘をいたわっているように感じられるが、これが彼なりの精一杯の愛情の示し方であったのだろう。ル・コルビュジエが長年にわたって大切にした女性はイヴォンヌただ一人であった。でなければ、イヴォンヌのために≪カップ・マルタンの休暇小屋≫を作ることも、彼女をモデルにした数多くの美術作品を制作することも、夫婦がともに眠る墓碑を作ることも無かっただろう。なにより、亡くなったときの落ち込み具合は説明できないだろう。

自分勝手この上なし 女性との関係性

イヴォンヌに対する態度で見たように、女性に対するル・コルビュジエの態度は現代なら大いに批判されることだろう。女性関係がことさらに取り沙汰されるフランク・ロイド・ライトなどと違って、イヴォンヌと添い遂げたル・コルビュジエにはいわゆる堅物のイメージがあるが、実際には「浮いた話」も無くはない。しかし、それらが表立って語られることが少ないのは、彼自身による情報管理もあるが、語られるほどの艶話にすらならなかったからだろう。

黒人レビューの大スター、ジョセフィン・ベーカーとは、1929年の南米講演旅行の帰途、数日にわたって行動を共にしたときの浮かれた写真や親密なスケッチが残されているが、それ以後発展することもなくあっさり終了している。

ル・コルビュジエの周辺には優れた女性たちがいた。シャルロット・ペリアンはアトリエで働いていた弟子兼仕事仲間であり、ル・コルビュジエの相棒であり再従弟のピエール・ジャンヌレと親しかった。建築家アイリーン・グレイのことは高く評価し、≪新時代館≫の展示に協力してもらうほどだったが、後年、彼女が設計した≪E1027≫に勝手に壁画を描き、すぐ背後に監視するように≪休暇小屋≫を建てたことで絶交するに至っている。
特別な関係があった女性の一人はマルグリット・ハリス・ジェイダー(ハリス夫人)である。アメリカ在住の裕福な女性で、母マリーの知り合いでもあった彼女とは、ル・コルビュジエはアメリカで何度も会っており、そのときの秘密めいた思い出を何度も手紙に書き送っている(彼女にとって、それは迷惑なことだったかもしれない)にも関わらず、最後の手紙は、事業のために寄付金をお願いします、というあまりにもそっけない、事務的なお願いとなっている。
女性の人間性を尊重するという感覚をもたず、平気で傷つけるル・コルビュジエには失望させられるが、彼のこうした態度は後述する彼の絵画の表現の中にからも読み取れるのである。

心酔し、失望し、訣別する

ル・コルビュジエの短気、思い込みの激しさは、師を仰いだ人や政治家や有力者に対する態度に表れている。

彼には数人の師、あるいはメンターと呼べる人たちがいた。彼らはル・コルビュジエの成長を導いた。たとえば、地元の美術教師シャルル・レプラトニエ、近隣在住の文筆家で音楽評論家のウィリアム・リッター、建築業界の師であるパリの建築家オーギュスト・ペレ、ピュリスムや『レスプリ・ヌーヴォー』誌でともに活動した画家アメデ・オザンファンらである。
ル・コルビュジエは彼らのことを初めは心から敬愛し、憧れの眼差しを向ける。書簡でも素直に尊敬の念を綴っている。とくに若い頃はその態度が顕著であるが、次第に師や先達と違う意見をもつようになると、すっかり熱が冷め、あからさまに相手に対して失望の念を表明し、距離を置いたり、訣別したりする(リッターとは交流が続いた)。
建築家として認められ、各界の有力者や政治家と交流する機会が増えると、彼は思い込みで相手の好意に多大な期待をかけ、過剰なまでの自己アピールをし、さまざまな要望を遠慮なく申し出る。そして「こんなに素晴らしいプランを提示しているのだから、自分がこのプロジェクトを任されるのが当然です」と主張し、あげく「ずっと待っているのに、いつになったら仕事を出してくれるのですか」と非難めいた催促までする。そしてこの後に来るのがお決まりの失望である。元はと言えばル・コルビュジエだけが勝手に盛り上がっただけなのに、うまくいかないと分かると悲嘆するだけでなく、憤慨し、相手を攻撃すらする。彼のこの態度には相手は困惑するほかなく、やがてル・コルビュジエは敬遠されてしまうのである。
これで迷惑をこうむった政治家の一人がクロディウス・プティだが、彼はル・コルビュジエとうまく折り合いをつけ、後年フィルミニの市長になった折、ル・コルビュジエにフィルミニ・ヴェール地区のいくつもの建築を依頼している。
ル・コルビュジエはパリに出てきて早々に同郷のスイス人たちの応援を受けている。なかでも銀行家ラウル・ラ・ロシュは生涯にわたって、ル・コルビュジエを支え続けた一人であり、最晩年にはル・コルビュジエ設計の≪ラ・ロシュ邸≫を「ル・コルビュジエ財団」に寄贈している。
こうしたパトロン、強力な支援者はル・コルビュジエが生活に困窮しているときに彼の絵画を購入して生活を支援したりもしてもいるのだが、ル・コルビュジエが直接「お願いごと」をすることもあった。自分の事務所で作った建築模型や知り合いが作った陶器を買ってくれるように(しかも結構な高額で)頼み、お金がある支援者には臆面もなく、「これをこの金額で買えるということはあなたにとってありがたい話なのだ」と押し売りのごとく書き送ったりもしている。その過剰なまでの自信はいったいどこから来るのだろうか。

難しい距離感

ル・コルビュジエは自分に対して攻撃をする相手に対しては常に負けまいと拳を振り回す反面、優しく声をかけてくれる人、損得無しで近寄ってくる人に対しては、相手の思いを超えるほどの親しい感情を抱き、自分もたいして余裕はないはずなのに品物や小切手を与え、いつでも相談に来るようにと優しさを見せる。たとえば、妻イヴォンヌの友人に対してさえも親切な手紙を書き品物を送っている。自宅に来る家政婦の生活を案じて、自分が出張で仕事が無くなる間、面倒を見てやってほしいと母親に頼む。自分が代父になった相手(赤ん坊)に対して毎年プレゼントをし続ける。
相手に何かをしてあげられることの嬉しさがあふれ出て、相手との距離を極端に近くし、自分のペースで相手に接しようとする。おせっかいとか、自分勝手な親切心、上から目線な愛情表現に発展することもある。それはル・コルビュジエの寂しさの裏返しなのかもしれない。

総じて言えることは、ル・コルビュジエは相手に対しての距離感が近すぎるのだろう。期待を持って距離を縮めすぎるあまり、一度何かがあると突然はじけ飛ぶように離れてしまうのだ。彼が後年、極力パーティー等への参加を断り、一人でいることを好んだのは、他人との付き合いの難しさを感じるようになったせいもあるのだろう。

美術作品の中で

ル・コルビュジエが美術作品のなかでどのように人物を表現したか、見てみよう。

彼は30歳でパリに出て定住するが、それまでのスイス時代に描いた風景画や旅先でのスケッチの中にはごく普通に人物が登場している。また、ピエタの場面や、女性と帆立貝のモチーフといったキリスト教絵画の模写と思しき作品も見られるし、ほかにも、時代の影響であろうか、未来派風であったり、フォービスム風であったりの人物画を、強い色調と激しい筆致で描いた作品も残している。

1910年代末から1920年代半ばまで、アメデ・オザンファンとともに活動し、「ピュリスム」を標榜していた時期には、楽器や、瓶・グラスといった類型的オブジェで埋めた卓上の静物画しか描いていない。例外的に、自画像や身近な人物(妻イヴォンヌ、両親、兄アルベール、再従弟ピエール・ジャンヌレ、W.リッター、J.ベーカー、A.オザンファン、A.ペレら)の肖像画はあるが、ほかに人物を描いた作品にはお目にかかることはできない。
1920年代後半、ピュリスムを離れたル・コルビュジエは新たな表現を模索する。機械の美学から離れたル・コルビュジエが描いたのは石や貝殻といった詩的なオブジェ、そして女性たちだった。
油彩作品に登場した人物像は、幾何学的な類型的オブジェと通じるようなフォルムをしていたり、極端に丸みが強調されたり、胴体が円筒形のようであったり、友人フェルナン・レジェが描いていた人物像を彷彿とさせる表現である。次第に自在な曲線で描かれるように変化をとげるが、幾何学的造形への強い拘りを残した彼は、彼女たちを窮屈な幾何学的な構図の中に追い込んでいった。
1920年代末以降、彼の絵画のメインテーマは女性となる。南米各地を講演旅行でまわった際に接した逞しい女性たちは、パリの女性たちとは違う、生命力あふれる新しい人間の姿として、彼の創作のインスピレーションの源となったことだろう。彼が描く女性たちは骨太で生活感にあふれている。
ル・コルビュジエは、第二次世界大戦前は大西洋側のアルカション湾のピケでバカンスを過ごしている。ここは漁村でもあり、牡蠣の養殖で有名なことから牡蠣採りの女性や舟をバックに佇む女性たちを描いている。戦後は地中海沿岸のカップ・マルタンに≪休暇小屋≫を建てて毎夏通った。彼は海辺でくつろぐ人物や、歌い踊る女性たちの姿を好んで描いている。
ル・コルビュジエが描く女性たちはデフォルメが進み、リアリティが失われ、人体はありえない形となり、バラバラに分解される。人体の輪郭線と色彩はそれぞれが自律し、曲線と色面の面白さだけが表現されるようになる。このころにはもう個々の人物は興味の対象ではなく、女性の曲線的なフォルムを描くことと、自分が作り出したキャラクターを描くことがテーマとなっている。

ル・コルビュジエの人物画において、対象の個性や人格を表現するような作品はほとんどない。彼が繰り返し描いたのは妻イヴォンヌだけだが、そんなイヴォンヌですら、その相貌をしっかりとらえた作品は1930年前後に描かれたものに限られる。顔の特徴(大きなアーモンド型の目、小さな口元)や豊満な体形からイヴォンヌであることが暗示されるので、30年代以降の女性像の多くが彼女をモデルとしていることが分かる程度である。観光絵葉書をもとにした作品も多いが、当然のことながら、彼女たちの個性を表現することはない。

女性はやがて祈りの存在へと変化していく。イヴォンヌを描いた一連の『サンスの大聖堂』からの作品は、『イコン』のシリーズへと変化していく。そこで描かれたイヴォンヌはろうそくの前で祈る姿となっている。また、肩の部分が翼のように変形した「月の女神」も、このイヴォンヌからの変容だといってよい。

理想の人間像

故郷を出て、パリで体調をくずしたル・コルビュジエは、スポーツ療法に通じていた医師ピエール・ウィンターと知り合ったことで、彼の指示を受けてバスケットボールに取り組み、長年にわたって習慣的に身体を鍛えることとなった。ウィンターは雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』に寄稿し、ル・コルビュジエの『作品集』に序文を書くなど親しい関係となっていた。
ル・コルビュジエは、自らがスポーツに取り組むだけでなく、鍛える人たちを建築スケッチに描きこんだ。健康的な暮らしは20世紀前半の住宅建築においても喫緊のテーマであり、彼は都市計画において必ずスポーツ施設を設置し、アパートには住民がトレーニングできるようなテラスを設けた。

1950年代にル・コルビュジエの作品に新しく登場したのが、「モデュロール・マン」である。第二次世界大戦中に研究をかさね、人間の身体寸法と黄金比などを組み合わせて作り出した新しい尺度モデュロールをシンボライズしたものがモデュロール・マンである。レオナルド・ダ・ヴィンチによるウィトルウィウス的人体のような理想的人体図であり、自身が手掛けた≪ユニテ・ダビタシオン≫などの壁面にその姿を刻んでいる。

ル・コルビュジエは個々の人物よりも、「ヒト」のフォルムを描くことに興味があったが、その傾向は戦後になると顕著で、彼が繰り返し描いた人物像は、現実の人物ではなく、物語の登場人物(ギリシャ神話や自分がつくったキャラクター)に限られる。「モデュロール・マン」もそうしたキャラクターの一つであり、自分が作り上げた理想の人物像であり、手を挙げて大地に屹立し、健康で美しい身体バランスをもった人間なのである。しかし、彼は表情をもっていない。

ル・コルビュジエとファシズム

ル・コルビュジエは政治に対してあまりにも無知だったと必ず指摘される。本人も自分は政治には無関心だと語っているが、ファシストとの交流を示す資料が近年公開されたことで、ル・コルビュジエの別の一面がクローズアップされている。

1930年代前半は≪セントロソユース≫などソビエトでの仕事に取組み、現地の建築家とも交流し、その後も左派的な新しい農村の計画などを提示している。と思えば、30年代後半には右派寄りの雑誌『PLAN』へ協力、「ボルシェビズムのトロイの木馬」として非難されたりもしている。さらに戦争が近づくとムッソリーニとコンタクトをとろうと画策し、パリが占領されて逃れた後は、ナチスの傀儡であるヴィシー政府に接近している。ちなみにこの時、再従弟のピエール・ジャンヌレはレジスタンスに参加するため、ル・コルビュジエの許を離れている。

ル・コルビュジエが提案した「輝く都市」はファシスト的であると指摘されているが、それは彼の計画案が全体での統一感や効率に目が向けられていたためで、こうした全体主義的な姿勢が、ル・コルビュジエの都市計画とファシズムとの相性の良さを裏付ける理由となっているのである。そのうえ、彼は友人の医師ピエール・ウィンターとのつながりで、外科医アレクシス・カレルと交流をもっていた。カレルはノーベル賞を受賞したほどの医師だが、民主主義を批判し優生学の政策を語り、ファシズム政党フランス人民党の党員となり、ヴィシー政権を支持する過激な政治思想を抱いていたことでも知られている。さらに、ル・コルビュジエは戦争中、ユダヤ人に対して冷淡な発言をしていたことも近年紹介されている。
これらのことから、政治には無関心だったと語ることは自分の立場をあえて明確にしないためだったのかもしれないが、いずれにしても、ル・コルビュジエはどこにでも顔を出して仕事を得ようと奔走していた。やがて戦争が終わり、フランスでは復興事業がすすめられたにも関わらず、そこに携わる機会が得られなかったのは、こうした戦争中の態度が非難されたからだが、皮肉にも戦争中に業績を残せなかったおかげで、やがて仕事を再開できたのである。

戦後、ル・コルビュジエが作り出した「モデュロール」は、人間の快適な空間づくりのために編み出された尺度だった。モデュロールの寸法を用いれば、誰にとっても居心地の良い幸せな空間を作れるという、人間中心主義による空間の創造である。しかし、ここにおいても、ル・コルビュジエはカレルらを通して優生学に接近し感化を受けていたことから、まず先に望ましい寸法ありきで、その理想的な尺度の値に人の身体を押しこめようとしていたのではないのか、といううがった見方も提示されている。

ル・コルビュジエの人間性

残された言葉や作品を通して他者との関わり方を見ると、ル・コルビュジエは人との距離感が不安定で、そのためにトラブルになったり、仲違いしたりしている。コンプレックスから僻みっぽくなったり、失敗を相手のせいにしたり、頭から戦闘的な態度をとって多くの敵をつくる。名誉や勲章が大好きなのに、それを押し隠して仕方なく受け取るような態度を見せる。お金にはシビアなはずなのに、いつもお金のことで悩まされる。そもそも自分のことしか考えず、他人の内面にあまり関心を持たないタイプなので、自ら進んで相手を理解しようと積極的に接することはない。つまり、かなり面倒くさい人だった。

こうした彼の人間性の形成の要因を家庭環境だけに求めるのは短絡的だが、ル・コルビュジエのあらゆる活動の根底には、母親に対しての報われない愛情、思慕の念があり、子供のころから孤独感や自己承認欲求を持ち続けていたことに関係があることは間違いない。母親に認められようとしたことが彼を大建築家にしたともいえるのである。

年とともに孤独をかこっていたル・コルビュジエだったが、≪休暇小屋≫を建てた南仏のカップ・マルタンでは、居酒屋「ヒトデ」のルビュタトゥー氏の一家をはじめ、近所の住民とは親しいつながりをもっていた。仕事の拠点であり戦場であるパリを離れて、妻イヴォンヌ同様に彼のことを気にかけてくれるごく普通の人々と、交友関係を結ぶことができたのは嬉しかったことだろう。便利な暮らしや名声を得て注目される生活がイコール幸せではないことをカップ・マルタンの小屋で感得したときには、もう最愛の妻イヴォンヌはいなかったが、それでも、この地で生涯を閉じることができたのは、ル・コルビュジエにとって最後の安らぎとなったのではないだろうか。