ル・コルビュジエの運動施設

林美佐(ギャルリー・タイセイ学芸員)

人々の多くが農民や漁民、狩猟民であった昔、「余暇」という概念はなかったが、産業革命とともに人々の暮らしは一変した。労働時間が決められることによって、人々は職場で「働く」、家に帰って「食べて寝る」の大きな二つの時間を過ごすようになり、その二つの間の余った時間や週末に生まれた自由になる時間が「余暇」と呼ばれるようになった。
また、19世紀は病気が蔓延した時代でもあり、ヨーロッパでは伝染病が大流行した。劣悪な環境で非衛生的な暮らしをする都市生活者の間にあっという間に病気の感染が拡大したことから、人々の間に健康への意識が高まり、きれいな空気を吸って身体を鍛える海水浴や山登りなどが、医療行為として推奨されるようになった。
やがて、人々は「余暇」を過ごすにあたり、医療行為というよりも気分転換のために旅行に出かけたり、積極的に身体を動かし、さまざまなスポーツに取り組んだりするようになっていった。このように19世紀末から20世紀前半にかけて人々の生活が大きく変わったことによって、新しいスポーツ施設、新しいスタイルの住宅が提供されるようになったのである。
ル・コルビュジエは分厚いメガネをかけて、神経質そうな顔をして、あまり運動など好きではなさそうなイメージがあるが、実際には身体を鍛えるのが大好きだった。毎日バスケットボールをする、自転車レースに挑戦する、夏はいつも海水浴三昧で過ごす、といった面はあまり知られていない。

1896年には、第1回目の近代オリンピックがフランス貴族のクーベルタン男爵の提唱によりアテネで開催された。このとき実施されたのは、陸上、水泳、テニス、体操、レスリング、自転車、フェンシング、射撃の8競技43種目で、14か国241人の選手が参加し、以後4年ごとに開催されることとなった。オリンピックや、サッカーのワールドカップといった大きなスポーツイベントが開催されると、私たちは否が応でもそれらの大会に引き込まれるが、ル・コルビュジエと再従弟のピエール・ジャンヌレの場合も例外ではなかった。
1936年にはベルリンで、ヒトラーの指揮のもと、オリンピックが開催された。このときのスタジアムのデザインや開会式の演出などは、レニ・リーフェンスタール監督による記録映画(1938年公開)によってよく知られている。ル・コルビュジエがこれを実際に現地で見た可能性は低いが、その映像や記事は目にしたと思われる。また、それまでにもスポーツ観戦の機会はあったし、1935年のアメリカ旅行では大学の運動施設を目にし、ツリンではバタ社の従業員運動会を見学している。ジャンヌレもガルシュでの大きな祝祭に参加している。
彼らはスポーツそのものの魅力に加えて、大勢の人間が集まる場の創造に興味をもち、さっそく、祝祭の空間としての≪10万人収容のスタジアム≫のプロジェクト(1936年)にとりかかった。このプロジェクトは、単なる大型スポーツ施設というだけでなく、新しい市民集会の形態の追求という点でも重要であり、『作品集』では多くのページを割いている。
そのため、このスタジアムは、陸上競技、サッカー、総合スポーツ大会だけでなく、演劇、映画上映、講演や国家的な大規模イベントなどの用途でも利用できるようにステージやスクリーンを設けるなど、スタジアムのさまざまな使い方を想定し、対応できるようにしている点が大きな特徴となっている。他にも、大きな貝殻のようなフォルムをし、太陽の陽射しをうまくかわし、観客に眩しく感じさせない工夫や、ワイヤーで天幕を吊る構造など、非常に独創的なデザインであったといえよう。
敷地はパリ郊外の数か所を候補として検討後、ヴァンセンヌの森とジュヌヴィリエ、ジャンティの3か所に絞った。まず、ジュヌヴィリエはパリ市の西側でセーヌ川に面したエリアで、ここではボート競技もできるように計画案を作っている。ジャンティはパリ市南側の「パリ大学都市」のさらに南にあたり、モンスーリ公園の向かいで、南に向かう幹線道路に通じる場所で、3つの中では小さめの敷地である。ヴァンセンヌの森エリアは面積が広いうえ、すでに自転車競技場やスタジアムが建てられており、そこも含めた利用計画となっている。そして、ここは1937年のパリ万博の展示館用地として1932年時点で提案された場所に近く、ル・コルビュジエが1925年以来パリの都市計画に用いる東西軸につながる場所であり、道路や鉄道の整備も計画した。

このプロジェクトをまとめあげたのはピエール・ジャンヌレだったが、ル・コルビュジエは出来上がったこの計画案を大統領や市長などにアピールし、パリ万博の≪新時代館≫(1937)ではジオラマを展示して紹介している。

この他にも、ル・コルビュジエは何度もスタジアムを計画しているが、実現したのは2作品だけだった。
その一つ、フランス中部の街フィルミニにある≪スタジアム≫(1965年)は、街の再開発のために、旧市街と新市街をつなぐ傾斜地に、≪文化の家≫≪サン・ピエール教会≫とともに建設された。
窪地の底部分が陸上競技用のトラックとなっており、自然の傾斜を利用してスタンドが設けられている。スタンドの反対側には、岩場をそのまま残して、≪文化の家≫がスタンドに覆いかぶさるように張り出して建っている。スタジアムのスタンドの後ろ側には、≪サン・ピエール教会≫と屋内プール施設が建っているが、屋内プールは彼の弟子であるボジャンスキーの設計による作品である。
なお、もう一つのスタジアムというのは、1956年から手掛けたバグダッド(イラク)の≪サダム・フセイン・スタジアム≫であり、詳細は不明ながらも現在は完成しており、ル・コルビュジエ財団のホームページにも紹介されている。

ル・コルビュジエは単体の施設としてスタジアムを計画するだけでなく、大小さまざまなスポーツ施設を重要な都市構成要素として、建築の中に取り込んでいた。
集合住宅のスケッチでは、住戸のテラスに運動具を置いて、家でも身体を鍛えられることを示しており、1922年に発表した口の字型をした高層集合住宅「イムーブル・ヴィラ」案では、中庭部分がグラウンドになっている。また、≪ユニテ・ダビタシオン≫屋上にプール、トラック、ジムを設置するなど屋上を利用した運動施設案を繰り返し提示するなど、彼は単体の施設をつくるだけでなく、建物の中に組み込むことで、より身近にスポーツできる場を提案してきた。
都市計画案を見てみると、例えば、アントワープ(ベルギー)の「エスコー左岸の都市計画」(1933年)では、川岸のエリアに大型のスタジアムやグラウンドを配している。
パリの「不衛生区画No.6」の改良計画(1937年)でも、ジグザグ型の集合住宅によって生まれる空きスペースに緑とグラウンドを計画している。
彼が提唱する「輝く都市」は、太陽、空間、緑にあふれた健康的な街であり、その中でスタジアムやスポーツ施設は都市の中の重要な要素として構想されたのである。