ル・コルビュジエにおける時空間のデザイン—遠隔化と近接化—

加藤 道夫  Michio KATO

1. 「規則(法則)」から「遊動」へ
「規則」と「遊動」は,ル・コルビュジエを理解するために筆者が『総合芸術家ル・コルビュジエの誕生 評論家・画家・建築家』で提示した視点である[1].ここで,「規則」(あるいは「法則」)とは,英語で「rule」にあたる仏語の「règle」,(あるいは英語で「law」にあたる仏語の「loi」)の訳語である注1.「遊動」とは英語では「play」にあたる仏語の「jeu」の訳語である.通常は,「遊び」と訳されることが多いが,単なる「遊び」と区別するために「遊動」を用いている.
ところで,後のル・コルビュジエことジャンヌレは,アメデ・オザンファンとの共著『キュビスム以後』(1918)[2]でパリ・デビューを飾る.同書は,二人が提唱したピュリスムのマニフェストとして出版された.ピュリスムとは,先行するピカソやブラックによって始められたキュビスムを批判的に継承する絵画運動だった.そこで,ジャンヌレは,科学に倣って「規則(法則)」に基づいた芸術への転換を主張した.それは,芸術を科学へと接近させることで,同時代を含む直近の過去の芸術との距離感を表明し,自らの独自性を主張するものだった.彼が記したとされる第2章は,以下のように結ばれている.

規則(法則)(一切の自由を)制約するものではありえない;規則(法則)を避けることはできず,それらは避けがたい枠組みではあるけれども,あらゆる事物の揺るがせない枠組みにすぎない.枠組みは足かせではない.(規則(法則)なき)遊動はもうたくさんだ(Assez de jeux).我々が望むのは,しっかりとした厳格さなのである(下線筆者,カッコ内筆者挿入)注2

彼の記述は,一見すると「遊動」の否定のように読めるかもしれない.しかし,彼の唱える「遊動」の否定は,カッコ内に補ったように,「規則(法則)なき)遊動」の否定と考えるべきだろう.その証拠に,以降の彼の建築の定義では,もっぱら「遊動」が使用されることになる.彼は,「建築家諸氏への3つの提言」(『レスプリ・ヌーヴォー』,第1号,1920年10月)[3]において建築を次のように定義する.

建築は光のもとに集められた諸立体の,精通した正確な素晴らしい遊動(jeu)である注3

さらに,『今日の装飾芸術』(1925)[4]出版の際に書き加えられた「告白」においても,若干の変化は見られるものの,建築を「遊動」と定義する.

建築は光線の下における諸形態(formes)の壮大な遊動(jeu)であり,建築とは精神による一貫したシステムである注4

その後,1928年に『住宅と宮殿』[5]を出版する.同書は,国際連盟設計競技における不当な落選への抗議として出版され,結果として彼の建築の革新性を世に知らしめることになった.彼は,スタイン=ド・モンヅィ邸(1927)を図版で紹介しつつ,以下のように「遊動に勝利」と宣言する.

真実というものはあからさまできっぱりとしている.それは,偶因的な諸力の拘束の中でも輝かしい自由をもたらす.厳しい与件によって凝縮された純粋な解決は,凝集体として,結晶体としてその姿を現わす.遊動(ゲーム(jeu))の規則(règle)が現われて,遊動(ゲーム)に勝利する(est gagné) 注5(下線筆者)

このように,建築の定義では,当初から一貫して「遊動」が用いられていた.ただし,1920年に建築を「遊動」と定義した時点では,パリ移住後における建築設計の実現作品はなかった.その後,アトリエ・オザンファン(1922)からスタイン=ド・モンヅィ邸(1927)にいたる一連の設計の実践(遊動)が続いた.『住宅と宮殿』における「遊動」は,彼の建築家としての実践(遊動)に裏打ちされた記述といえるだろう.
画家としての彼の実践(遊動)はどう変化したのだろうか.彼は,1918年に『キュビスム以後』で「ピュリスム」を提唱し,その実現をめざした.その後,1922年頃からピュリスムの「規則(法則)」から徐々に離れ始め,1925年におけるオザンファンとの決別以降,絵画の実践(遊動)を通じてピュリスムからの自立を模索した.そして, 1928年頃から絵画においても本名である「ジャンヌレ」に替えて「ル・コルビュジエ」と署名するようになった.評論家,建築家に加えて画家を含めた総合芸術家「ル・コルビュジエ」の誕生である.
その後,彼は1923年以降控えていた大規模な絵画展を1938年に再開する.また,同時期に造形芸術家としての業績をまとめた『造形作品集』[6]を刊行する.そのテキストで遊動と規則の相互作用を次のように述べている.

芸術作品は遊動である:芸術作品とは一つの遊動であり,その規則(régle)は作者が生み出したものである.(中略)作家―画家―は,自らの遊動の規則を生成し,そして,その規則が遊動を求める人々に見えるようにしなければならない(カッコ内筆者挿入)注6
そして,「規則」について次のように記述する.

遊動の規則:規則は十分な知性の記し(signes)からつくられる.規則は,未使用,未編纂.予期せぬ,見知らぬ対象を使用することはできない注7

要約するなら,1918年のパリ・デビューが,「遊動」を完全否定するものではないものの,「規則(法則)」なき「遊動」の否定で始まったとすれば,1920年には建築を「遊動」と定義し,その後の建築と絵画の実践(遊動)を経て,1928年の『住宅と宮殿』において,「遊動に勝利」と記述するに至る.そして,1938年の記述では,「規則(法則)」が,改めて「遊動」を支える「知性の記し」と記されることになった.
以上のように,ル・コルビュジエにとって,建築や絵画の実践は「規則(法則)」と密接に関係づけられた「遊動」だった.

2. 「遊動」 の時空間
彼の創作活動を「遊動」と位置付けるだけでは,彼の活動の価値を限定することにもなりかねない.そこで彼の「遊動」を時空間との関係から見直したい.
繰り返しになるが,彼の「遊動」すなわち遊びは,「規則(法則)」と密接に関連付けられており,カイヨワ[7] が含めたような,当初から「規則(法則)」を想定しない「遊び」は含まれない.カイヨワがその狭義性ゆえに否定したホイジンガのそれに近い.ちなみに,ホイジンガは,『ホモ・ルーデンス』(1951)において,遊び(遊動)を次のように定義している.

それは自ら進んで限定した時間と空間の中で遂行され,一定の法則(規則)に従って秩序正しく進行し,しかも共同体規範を作り出す.それは自らを好んで秘密で取り囲み,あるいは仮装をもってありきたりの世界とは別のものであることを強調する注8(下線筆者,カッコ内筆者挿入)

 ホイジンガの遊び(遊動)の定義にちりばめられた様々な語句,特にその前半部分は,ことごとくル・コルビュジエの1920年代の「遊動」の特性に対応しているように思われる.それらは,1) 「自ら進んで」(主体的に)「限定された時間と空間」で遂行され,2) 「一定の法則(規則)に従って秩序正しく進行し」,3) 「共同体規範を作り出す」. 
特に指摘しておきたいのは,遊びである限り,その場の時間と空間が限定されており,しかもその共同体規範が,ありきたりの世界,すなわち現実とは別物であることが強調されるということである.
当然のことながら,ピュリスムは,このような限定された時空間における共同体内のみでの有効性を目指したものではなかった.少なくともオザンファンの考えるそれは,ホイジンガのいう遊び(遊動)とは対極にあり,時空間の限定を越えた普遍性を求める絵画運動だった.その証拠に,オザンファンは「規則」について言及するけれども,「遊動」という言葉を用いなかった.
それに対して,ル・コルビュジエが「遊動」を使用したことは,限定された時空間における共同体規範を容認するように思われる.オザンファンとの違いは,ホイジンガが遊び(遊動)の内に認めた特性と併せて考えるとよく理解できるのではないだろうか.ピュリスムは,理性に基づいた普遍の追及であるけれども,それが遊び(遊動)である限りにおいて,限定された時空間においてのみ成り立つ共同体規範(虚構の普遍性)の創出にすぎないという側面を持つからである.すなわち,「規則(法則)」が容認する範囲の内に「遊動」の自由を担保することは,「遊動」の効力を「規則(法則)」が有効な時空間に限定することに他ならない.
ただし,「遊動」の持つこうした特性,すなわち時空間の限定を,否定的なものとは考えるべきではないだろう.なぜなら,あらゆる創作行為は,何らかの時空間的制約の内にあるからである.例えば,彼を世に知らしめることになった,アフォリスム「住宅は住むための機械である」は,機械を近代化の象徴とし,機械を範とする「規則」の普遍性を新たな価値として容認する当時の限定された時空間の中でその効力を最大限に発揮した.
だからといって,それが生み出された限定された時空間との関係性だけを重要視する必要はない.むしろ重要なのは,そうした時空間の中で生み出された絵画,建築,都市デザインの効力が,当初の時空間の限定を越えていかに生きながらえるかにある.

3. 建築デザインにおける時間距離

3.1. 既存システムの解体
ル・コルビュジエを理解するために必要なもう一つの重要な観点が存在する.それはその時の現在との関係性である.この観点から彼を捉える前に,彼からいったん離れてモダニストの建築デザインについて考えてみたい.
建築デザインとは,未来において実現する唯一の実現案へと収斂するプロセスと捉えられるのが普通である.けれども,実現される建物なるものが未だ存在せず,この意味で不確定である以上,むしろ,現在の現実(réel)とは異なる潜在的可能性の追求という側面がある.さらに言えば,新たな建築デザインとは,建築構成要素を関連付け,意味づけてきた既存のシステムをいったん解体し,新たなシステム構築の可能性を探ることを含意する.
それでは新たなシステムはどのようにして構築されるのか?少なくとも,モダニストと呼ばれる20世紀初頭の建築家たちは,ボザールに代表される既存の特権的システムを解体し,システムの再構築を目指した.その際,重要な範例になったのが,機械に代表される当時の最先端技術だった. しかし,現代においては, 1920年代のモダニストに見られたような技術信仰に基づいたシステムの構築への幻想は,薄れている.
多木は,こうした文化的背景の変化を記号の象徴性の次元の内に位置づけて捉えている.多木に従うなら,「実質的な機能で満たされ,使用目的の充足のなかに構築され,技術的合理性に貫かれるどころか,そこから逸脱し,技術そのもの,機能そのものも存在しなくなっている.コノテーション(2次的意味)が現実であるような環境なのである」[8]注9

3.2. 現在からの距離感
建築デザインが,未来において実現する何かを現在において構想するなら,それは現在と未来を接続する.ただし,デザインが志向する未来は,現在に直接的に隣接しない.何らかの形での現在からの遠隔化によって特徴づけられる未来を志向する.また,それは唯一解でもない.未来において実現される現実はさまざまな可能性に開かれており,一つのデザイン行為はその一例に過ぎない.
現在もまた過去に対する可能性の一例に過ぎない.つまり,過去が有した複数の潜在的可能性の一つが現勢化したにすぎない.したがって,たまたまの現在に直接依存しない未来の展望もありうる.デザインが有する現在との距離感は,このような複数性に対応する.つまり,デザインとは,必然的にこのような現在との時間的距離感,すなわち遠隔性を宿命づけられている.さらにいえば,仮にそれが現勢化,あるいは実現されたとしても,デザインは,その周囲との関係において,それまでとは異なる新たな現実を生み出すことになる.その意味で,空間的遠隔性をも宿命づけられているといえるだろう.つまり,デザインとは,時間的にも空間的にも現在との距離感によって特徴づけられる.
改めてル・コルビュジエに立ち戻って考えてみよう.筆者は,すでに「規則」と「遊動」を通じた分析を通じて,以下の時間的特性を明らかにした[1].それは,第1に,差異化を伴う同時代を含む直近の過去との断絶であり,第2に同一性の発見を伴う遠い過去の回帰である.
第1の特性は,1918年のル・コルビュジエのパリ・デビュー直後から1920年代にかけての特性である.1920年代前半には,オザンファンと共に,ピュリスム画家ジャンヌレとして,アカデミズム絵画やキュビスム絵画などの同時代を含む直近の過去の絵画との差異化を目指した.ピュリスム以後の1920年代後半には,ピュリスムあるいはオザンファンからの自立を目指した.いずれも,同時代を含む直近の過去との差異化により,自らの独自性を志向するという点で,まさに近代を体現するものであった.現時点を起点にして,差異化を通じて,同時代を含む直近の過去と異なる未来を志向するという点で,そのベクトルは未来に向かっている.
第2の特性は,第二次世界大戦後の絵画において特に顕著になる.その特性は,回帰による過去との接続を志向するという点で,未来に向けた直線的な進歩や進化を含意しない.この意味で,反近代性を含意する特性といえるだろう.また,現時点を起点にして,同一性の発見を契機に,過去を志向するという点で,そのベクトルは過去へ向かっている.

3.3. 編集される過去
過去へ向かうベクトルは,歴史編纂的性質を伴う.ちなみに歴史的編纂が,事後的編集を通じて,事実とは異なる「近代性」という神話を事後的に生み出す場合がある.それが,ル・コルビュジエの特徴だった.
絵画の例を挙げるなら,1918年制作の《暖炉》が「初めてのタブロー」と記述され,1926-7年制作の《静物》に1953年に「L-C 25」と署名するなど,厳密に言えば,歴史のねつ造ともいえる事後的編集行為が見られた[1]
建築においても同様である.『全作品集』第1巻,目次に見られる設計年の1925年への集中は,1925年を建築デザインにおける新たな出発,いいかえるならそれ以前の過去との差異化を意図したものであることを示唆している[9]

3.4. 時間の芸術家 ル・コルビュジエ
以上の事実は,ル・コルビュジエを単純に近代建築家と捉えることへの異議申し立てを正当化するだけでなく,ル・コルビュジエを再考する新たな捉え方を提供する.
ル・コルビュジエは,意識的に過去との時間的距離を操作しつつ,絵画を制作し,建築や都市をデザインしていった.第二次世界大戦後になると,1920年代前半のピュリスム時代の活動が,ル・コルビュジエという人物像誕生の物語すなわち神話の中で,事後的に再構成された注10.その神話を要約するなら,ピュリスム時代にはそれが当時の他者であるキュビスムとの差異化と特徴づけられるのに対して,ピュリスム以後では,彼の差異化は,ピュリスム時代を含む自らの直近の過去へ向けられた.そして,第二次世界大戦後になると,一方で他者との差異化を継続するものの,他方で自らの大過去,すなわちピュリスム時代の絵画へと回帰するようになった.
以上のように彼の時間的操作が特異なのは,進化や進歩を伴う,単純な発展史として位置づけられないことである.こうした事後的な時間的操作は,ル・コルビュジエという人物像の創作であり,一つのデザイン行為だった.

4. 遠隔化と近接化の両義性

4.1.時間的遠隔化と近接化
これまでのル・コルビュジエの芸術活動を振り返ることで得られた結果を見直すなら,彼の変容は,以下のように時間と関連づけられるだろう.それは,一方で差異化を通じた同時代を含む直近の過去との断絶であり,他方では自己の大過去やアクロポリスに代表される遠い過去との同一性の発見である.
ちなみに,前者は,過去との差異を肯定的な新しさとして捉え,進歩や進化の概念と結びつけやすいという点で,近代性を帯びることとなる.これに対して,後者は,進歩や進化の概念と結び付けられない.むしろ,ある種の循環を含意する.この意味で,反近代性を帯びることになろう.
こうした二重性を理解して,彼の活動を見直すなら,そこには近代性と反近代性という対立に回収できない両義性があることに気づかざるを得ない.いいかえるなら,ル・コルビュジエに近代性を認めるとしても,それは,進歩や進化の概念を媒介に,近代という神話を付与した結果にすぎない.したがって,彼を正しく理解するには,この種の進化概念をいったん遠ざけて見直す必要がある.
進歩や進化の概念を遠ざけるなら,次のように言い換えることができる.ル・コルビュジエにおける過去との断絶は,過去との差異性を通じて過去を遠ざけるという意味で,「時間的な遠隔化」である.同様に,アクロポリスへの憧憬に見られるような遠い過去への回帰は,同一性の発見を通じて,遠い過去を現在へと引き寄せるという意味で「時間的な近接化」である.

4.2.建築図における遠隔化と近接化
遠隔化と近接化という両義性は建築図にも見られるものである.ここでは,筆者による建築図の分類[9]に基づいて整理しておこう.
平面図や立面図にあたる「あるものの表現」とは,描く対象そのものを描くという意味で,限りなく対象に近接化した表現である.実際,紙が普及していない時代において,平面図は,建物が建てられる敷地の地盤の上に直接描かれることが多かった.その場合,幾何学は,直角や平行を保つための施工ツールとして用いられ,建築物と直結していた.他方で,平面図や立面図は無限遠からの投影と見ることができる.それは,対象と無限の距離を置くという意味での遠隔化である.そこでは,建築物を構成する対象間の幾何学的関係,例えば比例が,視点に依存しない客観的関係として記録される.それらは,ル・コルビュジエが,精神が捉えると呼ぶ関係であり,理念的という点でも対象からの遠隔化である.
それに対して,透視図にあたる「見るものの表現」は,描く対象に対して見る主体が一定の距離を保っているという意味で対象から遠隔化した表現である.他方で,先の無限遠からの投影である立面図と比較するなら,視点からの一定距離に依存するという意味で,立面図をより近接化するといえる.このように,建築図は遠隔化と近接化に関して両義的である.
こうした建築図一般の両義性に加えて,ル・コルビュジエの建築図は,同時代含む直近の過去の建築図,例えばボザールのそれとの比較においても両義性を有していた.立面図では,ボザールにおいて顕著であった立体表現や素材表現が徐々に姿を潜め,奥行きのない面の構成に還元された.それは,建築を抽象化する意図の反映と考えられ,建築の実体性から距離を置くという意味で遠隔化とも呼べるだろう.また,彼の透視図では,ルネサンス的遠近法が以下のように扱われる.すなわち,彼の主観的見方の反映によって,対象との距離がある箇所では誇張(遠隔化)され,別の個所では圧縮(近接化)される[9]
建築そのものについても,周辺との関係で遠隔化と近接化という特性が読み取れるだろう.サヴォワ邸(1928-31)のように周囲の景観と差異化して,際立たせることは,空間的遠隔化といえるだろう.それに対して,週末住宅(1935)のように景観の一要素として埋め込まれるような場合は,空間的近接化と呼べるだろう.

4.3.遠隔化と近接化の基準点
遠隔化は距離を長くすること,近接化は距離を短くすることといいかえることができる.一般に,距離は,二つの点に還元できる対象間の長さであるので,厳密にいえば相対的であり,双方が動いていても何の問題もない.しかし,計測の際には,どちらか一方を基準点(ゼロ点)として計測することになる.例えば,JRの駅は東京駅を起点に距離が示されるが,その際,東京駅が地球の自転によって,運動していることは問題にされない.このような計測の基準点を「定点」と呼ぼう.すると,遠隔化,近接化のそれぞれに定点を考えることができる.
ル・コルビュジエを遠隔化と近接化という概念で捉え直すとき,重要なのは,距離計測の基準点,すなわち定点がどこにあるかということである.ちなみに,「定点」を定めることは,「定点」を原点とする相対座標系の導入に他ならない.それは,結果として,世界の認識の枠組みを定めることにつながる.要約するなら,定点が重要なのは,「定点」が世界を理解する中心として機能することになるからである.
この点から見直すなら,ル・コルビュジエの定点は時代と共に変化した.パリ・デビュー時はその定点はキュビスムの近傍にあり,ピュリスム確立後はピュリスム近傍にあった.そして,それぞれからの遠隔化を志向した.1930年代からは自立したル・コルビュジエ自身が定点となった.第2次世界大戦後は,それぞれの時点での彼自身が定点でありつつ,時に定点は自らの過去,例えばピュリスム時代の彼へと移動した.この軽やかさが彼の特徴である.

4.4.遠隔化と近接化における意識について
次に考えたいのは,彼の特性である近接化と遠隔化の両義性が意識的なものか,無意識なものかの区別である.
意識的な両義性は分かりやすいだろう.絵画を例にとるなら,1918年の『キュビスム以後』の出版とトマ画廊で行われた第1回ピュリスム絵画展を起点とするパリ・デビューは,同時代の他者あるいは同時代を含む直近の過去であるキュビスムへの接近(近接化)を伴う,それとの差異化(遠隔化)だった.1920年代後半における画家ル・コルビュジエ誕生へと至る過程におけるピュリスムとの差異化(=遠隔化)も意識的といえるだろう.また,いわゆる「白の時代」と呼ばれる〈箱〉のような住宅群の相貌は,ボザールに代表される直近の建築群との差異化(=遠隔化)によって,自らの革新性を装う意識的な仮面である.
これに対して,無意識な時間的遠隔化は,一般に忘却と呼ばれているものが対応する.ル・コルビュジエにとって,多くの過去の記憶が遠ざけられて,記憶の片隅でいつ訪れるかわからない近接化(召喚)を待っていた.その召喚の例として挙げることができるのは,第2次世界大戦後に召喚された東方旅行(1911)におけるアテネのアクロポリスの記憶であり,それと関連付けられた絵画作品《暖炉》(1918)である注11

5.結びにかえて
本稿では,規則(法則)と遊動を出発点に,遠隔化と近接化の観点から,ル・コルビュジエの時空間のデザインを捉え直した.その結果を要約するなら,当初のピュリスムが同時代を含む直近の過去の他者であるキュビスムやボザールとの差異化(遠隔化)によって特徴づけられるのに対して,以降の活動は,緩やかな移行過程を経由して,同時代の他者や自らの直近の過去との差異化(遠隔化)に加えて自らの大過去との同一化(近接化)を包含する循環的過程に至るといえるだろう.
ル・コルビュジエのデザインが内包する,以上のような近接化と遠隔化という両義性は,現代における建築デザインへの手がかりになる.なぜなら,彼のデザインにおける近代化の特徴とされた他者の過去との差異化は,自らの過去との同一化を伴っているという点で,進歩や進化へと収斂する他の近代デザインとは異なっているからである.
おそらく,彼のデザイン手法は,近年の建築における改修,保存や修復デザインという問題にも応えるものだ.改修は,欠陥修復を通じた直近の過去の否定,すなわち差異化なのか?保存は,過去の定点へ向けた単純な回帰でよいのか?修復は過去への単純な回帰なのか?彼の過去への回帰を伴う差異化は,従来の改修,保存や修復の実践とは異なる道を示している.


注1 オザンファンと共に記した『キュビスム以後』(1918)において,範例とする科学法則に倣って,絵画制作に導入された.以降の芸術論において具体的な絵画の「規則」を表す際には,「règle」という言葉も使用するようになる.「loi」を「法則」,「règle」を「規則」あるいは「規範」と訳し分けることも考えられる.しかし,いずれも「遊動」と対に用いられることから,「遊動」の対概念として両者を区別せず,「規則(法則)」という訳語を用いている.
注2 参考文献2,p. 56.この翻訳は,白井秀和氏からの教示に基づいている.
注3 参考文献3,p. 92, 邦訳18頁.
注4 参考文献4,p. 211.
注5 参考文献5,pp. 70-2,邦訳62-5頁.
注6 参考文献6,ページ付なし.
注7 同上
注8 参考文献7,31頁.
注9 参考文献8,343-4頁.
注10 ベルクソンに倣うなら,近代の特性とはすべてを空間的に捉えることである.この立場では,時間といえども,CTスキャンのように,時間ごとの断片に切り離され,その連鎖として再構成される.この観点で見るなら,彼の事後的な時間の編集は,この種の近代的な空間操作といえなくもない.
注11 マルコ・イウリアノは,写真家ルシアン・エルヴェのインタビューで1949年にル・コルビュジエが《暖炉》とアクロポリスを結び付けたと記している,参考文献[10],p. 415.また,ル・コルビュジエの1951年のスケッチブックにも同様の記載がある,参考文献[11], E20-451.

参考文献
[1] 加藤道夫, 『総合芸術家 ル・コルビュジエの誕生 評論家・画家・建築家』, 丸善出版 (2012) .
[2] Ozenfant, A. et Jeanneret, C. E., Après le Cubisme (1918). Reprint: Altamira, Paris (1999).
[3] Le Corbusier-Saugnier, “Trois rappels à MM. les architects”, L'esprit nouveau, vol.1, Éditions de L'esprit nouveau (1920), 91-6, 邦訳,樋口清訳『建築へ』,中央公論美術出版 (2003).
[4] Le Corbusier, L’art décoratif d’aujourd’hui, Les Éditions G. Crès et Cie (1925).
[5] Le Corbusier, Une maison un palais, Les Éditions G. Crès et Cie (1928), 邦訳,井田安弘訳『住宅と宮殿』,鹿島出版会 (1979).
[6] Le Corbusier Oeuvre plastique, Éditions Albert Morancé (1938).
[7] カイヨワ,R., 『遊びと人間』,講談社学術文庫 (1990).
[8] 多木浩二,「ラショナリスムとフォルマリスム」,『視線とテキスト』,青土社 (2013).
[9] 加藤道夫,『ル・コルビュジエ 建築図が語る空間と時間』,丸善出版 (2011).
[10] Iuliano, Marco, “Montage d‘orient”, Fondation Le Corbusier, L’invention d’un architecte Le voyage en Orient de Le Corbusier, Édition de la villette (2013).
[11] Le Corbusier Sketchbooks Volume 2, 1950-1954, E20, The Architectural Fondation and The MIT Press, Cambridge (1981).

加藤 道夫
1954年生まれ。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了。工学博士。建築史・意匠。2019年3月まで同大学院総合文化研究科広域システム科学系教授。現在、東京理科大学客員教授。

本稿は,下記に掲載された講演論文を一部リライトしたものである.
加藤道夫,「ル・コルビュジエにおける時空間のデザイン—遠隔化と近接化—」,『2014年度春季大会(福岡)学術講演論文集』,日本図学会,81-86頁