ル·コルビュジエの壁
2018/04 エッセイ 林美佐(ギャルリー・タイセイ学芸員)
ル·コルビュジエにとって壁は重力を支えるためのものではなく、移動可能な空間の間仕切りであった。それは、空間に変化をもたらし、決定づけるものであった。
壁は手前に置かれるものを邪魔してはならない、だからゴテゴテの装飾的な壁紙や壁を覆う飾りは認められない。それらは壁の傷隠しであり、手前のものを埋没させると主張した。その結果、ル·コルビュジエの壁は背景として平板で単色に塗られ、引き立て役に徹していた。
「白い箱」と呼ばれても、実際には真っ白いだけの住宅など一つも建ててはいなかったル·コルビュジエの建築空間は、ポリクロミー(多彩色)による変化に富んだものだった。近年、修復工事が終わった《ラ·ロッシュ+ジャンヌレ邸》を見ると、外壁は薄いクリーム色、室内は白を基調に焦げ茶、青、緑、ピンクなどが塗られ、部屋ごとに雰囲気を変えている。室内にはラ·ロッシュ氏のコレクションであるキュビスムやピュリスムの絵画が掛けられたが、部屋の壁は彩度の低いこれらの絵画と呼応するような穏やかな色によって演出されている。
ル·コルビュジエが常に絵画を描いていたことはよく知られている。故郷ラ·ショー=ド=フォンでは、みずみずしいスイスの自然の風景を描いている。パリに出てからは、画家アメデ·オザンファンと出会ったことによって、ピュリスムの画家として、純粋な幾何学的な形態を落ち着いた色彩で表現するようになる。このフォルム、この色彩は、彼の建築と見事に一致している。
そして、絵画の画面に登場する多くのコップやボトル、楽器、本などは上下に移動する視点から描かれ、それぞれのオブジェの輪郭は他のオブジェへとつながり、目で追っていくと、まるで一筆書きのように、リズムよく輪郭をなぞっていくことができる。この流れるような視線の移動をいざなう表現は、「建築的プロムナード」と彼が呼んだ、建築空間を散策する喜びへと展開されている。階段やスロープなどによってぐるぐると歩くとき、展開を楽しませてくれるのが、間仕切りとしての壁である。全部開放的に見せるのではなく、ところどころで視界を遮ることで、暗から明へ、狭から広へと視線の変化をもたらしているのである。
ラ·ロッシュ+ジャンヌレ邸
やがて彼は壁に色だけでなく、素材の質感を与える。塗装によって質感を隠していた1920年代の作品から変化がみられるようになるのは、1920年代末である。シュルレアリスムの流行や、人間への回帰といった風潮を背景に、彼の絵画にも建築にも変化が表れる。絵画に「詩的なオブジェ」とよぶ骨や石が登場し、続けて女性や樹木を描き始めると、建築においても、鉄やガラス、コンクリートに加えて、木材や石、煉瓦の素材の質感をそのまま露わにした作品を作りはじめる。《マンドロ夫人邸》《六分儀の家》《ウィークエンド·ハウス》といった小住宅は、現場近くで産出される自然素材を用いて建設された。壁の表面には石や木材やガラスブロックによって凹凸が生まれ、室内の壁も塗装などを施さず、素材そのままの表情を残すようになった。こうなることで、壁は単なる背景ではなくなり、存在を主張し始めた。彼が壁画を制作するようになったのもこの頃からである。
パリでの《スイス学生会館》《ナンジェセール·エ·コリのアパート》では石やレンガが露出している。《スイス学生会館》では湾曲した乱石積みの外壁のちょうど内側にあたる談話室やエントランスの壁に、石や木材、鋼管の断面といった、細胞を想起させるような写真をコラージュした写真壁画(フォト·ミュラル)を制作している。これは当時隆盛であった、写真を使った表現「フォトモンタージュ」に触発されたものだろう。彼はこれ以降、何度も、写真を加工して作品化する写真壁画を制作している。日本唯一のル·コルビュジエ作品である《国立西洋美術館》でも、中心となる「19世紀ホール」には全面に写真壁画を作ることを構想していた。
1930年代半ば以降、とくにフランスでは壁画が一種の流行となる。「壁画芸術協会」が発足し、ル·コルビュジエもその会員となっている。1937年の「パリ万博」では、当時貧困にあえいでいた画家たちが、万博会場のパビリオンを彩る壁画の制作を任された。ラウル·デュフィの「電気の精」をはじめ、レジェやドローネーらがパビリオンの趣旨に合わせて印象的な作品を残した。このとき、ル·コルビュジエは《新時代館》というパビリオンを建設して、この万博に参加した。中の展示は大きなパネルが張り巡らされた仮設壁の回廊を歩く、という構成であり、ル·コルビュジエ自身もフォトモンタージュによる作品を制作している。
この頃、建築関係の編集者であるジャン·バドヴィッチがヴェズレイに所有する民家に、ル·コルビュジエは初めての壁画を描いている。友人の画家フェルナン·レジェにならって、自分にも描かせてほしいと頼んだのだという。壁画は壁全面を覆うものであり、その空間を支配するものである。額に入ったカンヴァスの絵画などと違い、その空間のために描かれたもので、移動させることができない。もともと画家志望であったル·コルビュジエのこと、大画面で描く快感は替え難いものだったのだろう。この制作を機に、彼は何度も壁画を描くことになる。
彼が自分の設計事務所の製図室の壁に描いたのは、裸婦と貝殻が絡み合うような絵柄の作品だった。明るく強い彩色と筆致によって描かれた作品は、間違いなく見る人にパワーを与えたことだろう。あらゆるものを生み出す「手」の力について、図面を引きながら気づくことがあったのではないだろうか。
インスタレーションとしての壁画や壁の素材感を強調した壁の前に棚や机を置くことはしない。壁はそれ自体が自律した存在、見せる壁に変化していったのである。
戦後になり、ル·コルビュジエの建築は重厚感が増し、存在感も圧倒的なものになっていく。《マルセイユのユニテ·ダビタシオン》は、ロジア側面のカラフルな彩色によって生き生きした雰囲気を感じられる。コンクリートの粗を隠すために行った彩色だったと語っているが、色が無ければ、単調なリズムのファサードの、巨大な灰色のコンクリートの塊は圧迫感さえ生じさせただろう。それに、1920年代のような抑えた配色であれば、コンクリートのグレーに負けて、さらに暗い印象になったかもしれない。彼の戦後の絵画を見てみると、画面に用いられているのが強い色彩になっている。南仏の太陽に相応しい原色が、単純化された線とともに画面に踊っている。建築の内外に用いられたのも絵画と同様の明快な色彩であり、いずれもコンクリートがもたらす重い雰囲気を軽くしている。
ル·コルビュジエはエマイユ(エナメル画)も制作した。エマイユはガラス質で耐久性が高く、環境の変化に強いため、彼は《ロンシャンの礼拝堂》《チャンディガール州議会議事堂》の扉などに採用した。艶やかなエマイユは、それ自体が明るい光を放っているようである。
柱と梁からなる建築にとって、壁は単なる被膜でしかないため、ある程度、どこに壁を置こうと建物が倒れることはない。だから視界をさえぎったり、散策を誘導したりするために、効果的に壁を設けることも可能となった。彼が用いる大きな回転扉やスライディングドアは、単なるドアというよりは、一種の動く「壁」と言ってもよいだろう。彼が鮮やかなエマイユで回転扉を制作したのは、内外に回転することで空間を変化させる壁画という意識だったのではないか。
もちろん、どんな壁にも壁画を描いたわけではない。集合住宅のように、住み手が変わる建築には壁画の類はない。そういう空間のために、彼はタピスリー(=壁掛け)を提案した。
ル·コルビュジエがタピスリーと関わるようになったのは、1930年代に、フランスの伝統的なタピスリーを復興させようとしたクットーリ夫人の呼びかけで芸術家たちがタピスリー用の下絵を提供したことに始まる。ル·コルビュジエはこのとき1点だけ制作に協力した。その後はしばらく制作から遠ざかっていたが、戦後再び取り組むことになった。織物のもつ保温効果と防音効果は打ち放しコンクリートの空間に有効であることから彼は好んだが、それだけでなく、「持ち運べる壁画」というコンセプトを重視した。だから「床から立ち上がるように設置するように」と、所有者に掛け方を指示までしていたのである。
しかも、ル·コルビュジエのタピスリーは、彼の建築の特徴である人体寸法を基準に作った尺度「モデュロール」に従った大型サイズのものばかりであり、大きく壁を覆うタピスリーは空間全体を作る壁そのものとなる。こうして、誰がつくった建築にでも、彼のタピスリーを掛けることによって、そこをル·コルビュジエの空間へと変えたのである。
こうして、壁はそれ自体が鑑賞対象となる大きな美術作品となったわけだが、これは、建築における絵画的要素との統合の一つのありかたである。
壁画やタピスリーなどをつくるときには、建築家と作家がコラボレーションをすることが一般的だが、カンヴァスの中で完結する絵画作品を日々創作していたル·コルビュジエは、建築をつくる画家として、建築に自分の絵画を組み込んだのである。ルネサンス型の万能の天才に憧れたル·コルビュジエならではの建築空間の誕生である。
一方で、光と色彩だけで表現する壁もある。とくに宗教建築では、天井や壁面に穿たれた採光窓から差し込む太陽が、色彩をまとって、床や壁に光をもたらす。その光は時間とともに変化し、空間に表情を与える。
《ロンシャンの礼拝堂》の小祭壇のための塔の向き、《ラ·トゥーレットの修道院》の「光の大砲」と「光の機関銃」の採光口の向きとトップライト、スリットの窓は、いずれもそれぞれ異なる方角を向き、朝と夕方の礼拝では異なる光を体験できるように工夫されている。《ロンシャンの礼拝堂》ではざらざらした仕上げに彩色が施されており、そこに光が差しこみ、時間とともに光が移動する姿は官能的である。さらに、晩年の《サン·ピエール教会》では、東側壁面に開けられた星座(オリオン座)を示す特殊な採光口からの光が賑やかで饒舌な朝、塔頂部のトップライトからの光で全体が明るさに包まれる昼、西壁に開けられた採光筒からの光で祭壇だけが静かに照らされる夕方、塔下部スリットからの光が外の気配を感じさせる夜まで、まったく異なる光の空間が現れる。光の動きによって、時間をも表現する知的で感覚的な空間を試みている。いずれも宗教建築では太陽と色彩の演出によって、「えもいわれぬ」崇高な空間をつくりあげている。
加えて、《ラ·トゥーレットの修道院》《フィルミニの文化の家》の廊下などで見られる、桟の配置にモデュロールの寸法を採用した「波動ガラス面」や、陽射しを効率よく取り入れる「ブリーズ·ソレイユ」も、壁を含めた空間にリズミカルな光と影を作り出している。
ル·コルビュジエの壁は、壁の前に置かれる物を邪魔しない地味な「背景」としてスタートしたが、やがて色彩を帯びることで空間に変化をもたらすものとなり、さらに、素材の質感の露出や壁画などによって表現される鑑賞対象となる絵画的な壁となった。また、宗教建築などでは、光によって空間を体感するための壁が演出された。
ル·コルビュジエの壁は、多岐にわたる造形活動に取り組み、総合芸術をめざしたル·コルビュジエの創造の結晶といえるだろう。