戦後の建築(1940~50年代)

クルチェット邸

第二次世界大戦が終わり、ル・コルビュジエは戦争で被災した町の復興に携わろうとアピールを続けますが、なかなかその役回りは回ってきませんでした。都市計画レベルの依頼は受けられませんでしたが、フランス北東部の街サン・ディエで織物工場を所有するジャン・ジャック・デュヴァル氏から壊された工場の再建、また復興相ラウル・ドートリからマルセイユでの労働者向けの大型集合住宅建設の依頼を受け、彼の活躍が再び始まります。

戦争中、ル・コルビュジエは人体寸法と黄金比を組み合わせた新しい尺度「モデュロール」の研究をすすめていました。この尺度を用いると、いくつかの数値を組み合わせるだけで、美しく、人が暮らすのにちょうど良いサイズの空間を作ることができるのです。彼は自分が手掛ける建築に極力この尺度を採用しようとしましたが、既成品のサイズにはない寸法のため、厳密な意味でモデュロールだけで建設するのは難しかったのが現実でした。

《デュヴァルの織物工場》は破壊された旧工場の煉瓦を再利用して作られ、大きな窓には初めてブリーズ・ソレイユ(建物本体の前面に取り付けた日除けのルーバー)が採用されました。冬季の低い太陽光は屋内深くまで入るのに対して、夏季の熱い太陽光は遮られるように工夫されました。この作品以降、ブリーズ・ソレイユは多くの建築で設置されています。

アルゼンチンでは医師の診療所兼住宅である《クルチェット邸》を、パリ郊外には《ジャウル邸》を手掛けています。

また、ル・コルビュジエが毎夏を過ごしたカップ・マルタンには、《休暇小屋》をはじめ、《仕事部屋》《ユニテ・ド・キャンピング》を建て、自分たちのための《墓》もデザインしています。「モデュロール」を活用して作った《休暇小屋》は、およそ10畳ほどの隠れ家で、その小さな空間は居心地が良く、最小限住宅の究極の姿だったのでしょう。彼はこの小屋から降りた海岸で海水浴中に亡くなっています。